守(森)田勘弥(読み)もりたかんや

改訂新版 世界大百科事典 「守(森)田勘弥」の意味・わかりやすい解説

守(森)田勘弥 (もりたかんや)

守(森)田座の座元,太夫元,歌舞伎俳優。10世まで〈森田〉の字を用いた。(1)初世(?-1679?(延宝7?)) 坂東又九郎の次男。森田座の創設者森田太郎兵衛養子となり,勘弥となる。1668年(寛文8)には河原崎座と合併興行し,森田勘弥,河原崎権之助,坂東又九郎と三名代で興行をした年もあった。初世の経歴については不明な点が多い。(2)2世(?-1734(享保19)) 坂東又次郎の子,又九郎の孫。初世没後,太夫元を相続,勘弥となる。役者も兼ね,小柄だが拍子事を得意とした。1699年(元禄12),弟に名を譲り,又左衛門となり,翌1700年に2世又九郎をつぎ座元となった。12年(正徳2)3世勘弥に又九郎の名を譲り,再び又左衛門を名のり,22年には弟の死により又九郎に戻り座元を勤めた。(3)3世(?-1722(享保7)) 坂東又次郎の子。1699年(元禄12)勘弥となる。1712年(正徳2)3世又九郎となった。(4)4世(?-1743(寛保3)) 2世勘弥の子。1712年(正徳2)勘弥となる。25年(享保10)ころから森田座は経済的困窮におちいり,34年から休座,再開できずに没した。(5)5世(?-1802?(享和2?)) 4世没後1744年(延享1)森田家の養子となり勘弥をつぎ,同年11月から森田座を再開した。51年(宝暦1)引退。(6)6世(1724-80・享保9-安永9) 狂言作者の初世中村重助の子。1751年(宝暦1)に5世勘弥の娘婿となり,勘弥をつぐ。74年引退した。(7)7世(?-1783(天明3)) 6世の長男。1774年(安永3)に勘弥となる。(8)8世(1759-1814・宝暦9-文化11) 5世勘弥の子。1783年(天明3)勘弥となる。89年(寛政1)から10年間,ついで1800年からも休座し,再開することができず,01年(享和1)座元を譲り,08年(文化5)再開場した公演で引退した。(9)9世(?-1838(天保9)) 8世の子。1801年(享和1)に勘弥となり,08年(文化5)に森田座を再開したが,その後も休座をくり返し,30年に引退した。(10)10世(?-1851(嘉永4)) 3世坂東三津五郎の子とも養子ともいう。1830年(天保1)に勘弥となり,33年に森田座を再開したが,37年再び休座し,再開できずに没した。(11)11世 4世坂東三津五郎の後名。1850年(嘉永3)に勘弥となり,56年(安政3)に森田座を再開し,58年に〈森田〉を〈守田〉と改めた。(12)12世(1846-97・弘化3-明治30) 1864年(元治1)に勘弥となり,72年(明治5)劇場を新富町に移し,近代的な機構・設備を採り入れた大劇場を建築した。75年新富座と名称を改め,文明開化風潮にのって,歌舞伎の近代化につとめた。明治10年代には活歴物や西洋演劇の翻案劇上演,また外人,皇族高官などを観劇させて,歌舞伎に対する人々の認識を高めようとした。その頂点となるのが1887年井上馨邸に天皇を招いての天覧劇であった。しかし経済的な困窮はつきまとい,晩年は不遇であった。(13)13世(1885-1932・明治18-昭和7) 12世の三男。1901年新富座の12世追善公演で勘弥をついだ。古風な容姿で,《義経千本桜》の弥助,《廓文章》の伊左衛門などの和事の二枚目を得意としたが,戯曲に対する理解力がするどく,研究意欲をもち,大正年間の研究劇団文芸座を中心として演劇界に大きな功績を残した。(14)14世(1907-75・明治40-昭和50) 歌舞伎女優3世坂東玉三郎の子。13世の甥で,養子となる。4世坂東玉三郎,3世坂東しうかを経て,1935年7月勘弥をついだ。すっきりとした容姿にすぐれ,和事系の二枚目を本領としたが,老女方から荒事まで,幅広い役柄を演じた。芸格の小さいのが欠点であったが,晩年には国立劇場の通し狂言上演に,古典歌舞伎の深い造詣を生かし,すぐれた成果を見せた。現在の5世玉三郎(1950- )は養子。
守(森)田座
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百科事典マイペディア 「守(森)田勘弥」の意味・わかりやすい解説

守(森)田勘弥【もりたかんや】

歌舞伎俳優。12世までは守(森)田座の座元名で,なかに俳優を兼ねる者もあった。初世は森田座を設立した森田太郎兵衛。2世以後は勘弥と名乗り,11世(4世坂東三津五郎)が守田と改めた。屋号〈喜の字屋〉。12世〔1846-1897〕は守田座を新富町へ移し新富座と改称。劇場の機構制度を改革して,明治の名興行師とうたわれた。13世〔1885-1932〕は12世の三男。芸域の広い俳優で,古典の二枚目から新作,翻訳劇にも成果をあげた。14世〔1907-1975〕は13世の甥(おい)で養子。

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世界大百科事典(旧版)内の守(森)田勘弥の言及

【興行】より

…京阪においても同様の処置が行われた。12世守田勘弥が,守(森)田座を猿若町から新富町に移転して新富座を新築し,観客席の一部を椅子席として観劇の仕組を改革したり,また植村文楽軒の操芝居が,大阪博労町の稲荷社境内から松島に移って,文楽座と名のって興行をしたのが,ともに明治5年のことである。99年11月に,福地源一郎(桜痴)と千葉勝五郎らによって木挽町に歌舞伎座(1824席)が開場した。…

【座元(座本)】より

…江戸時代の歌舞伎の興行権を持つ者の称。櫓主,太夫元ともいう。江戸では,1624年(寛永1)に猿若(中村)勘三郎が幕府に願い出て,中橋での興行を許されたのが座元の始まりで,以後,都伝内,村山又三郎,山村小兵衛(長太夫),河原崎権之助,森田太郎兵衛,玉川新十郎がそれぞれ劇場を立てて座元となった。57年(明暦3)の江戸大火後,中村勘三郎,市村宇(羽)左衛門,森田勘弥,山村長太夫の4人に限り座元として興行することが許されたが,1714年(正徳4)の江島生島事件で山村長太夫が官許を取り消され,山村座は廃絶した。…

【新富座】より

…しかし,79年9月外人の一座を招いて劇中劇に《漂流奇談西洋劇(ひようりゆうきだんせいようかぶき)》という合同劇を上演させて失敗。このころから座主守田勘弥の負債がかさみはじめ,その後は座主名義を変更したり,座主が変わったりして,座名も猿若座,桐座,深野座,都座などと頻繁に変わっている。97年新富座に復名,1909年松竹合名社が買収,23年関東大震災で焼失するまで存続した。…

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