桃井直詮(読み)もものいなおあきら

精選版 日本国語大辞典 「桃井直詮」の意味・読み・例文・類語

もものい‐なおあきら【桃井直詮】

(名は「なおあき」とも) 室町頃の、幸若舞始祖とされる人物。幸若舞はその幼名幸若丸によるという。幸若系図では、南北朝時代北陸武将桃井直常の孫とする。父の死後越前丹生郡西田中村に居住、のち比叡山で学問修行をしたが、天性音律歌舞にすぐれ、草紙類に節付けしたのが幸若舞のはじまりという。生没年未詳。

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改訂新版 世界大百科事典 「桃井直詮」の意味・わかりやすい解説

桃井直詮 (もものいなおあきら)

室町前期の人物で幸若舞(こうわかまい)の祖と伝えられる。生没年不詳。直詮を〈なおあき〉と読むこともある。幸若系図などの伝承によると,足利氏の一族で,尊氏と戦って滅んだ武将桃井直常の孫で,若くして叡山に入り声明(しようみよう)をよくし,のち工夫して舞を始め,幼名幸若丸にちなんで幸若舞と称されたと伝える。また,後小松天皇に召されたとか,朝倉孝景に仕えて3000貫を領したとか伝える。直詮の出身地は越前国西田中(現福井県丹生郡越前町,旧朝日町)で,この地は江戸中期まで院内(いんない)とも呼ばれていたところから,武将の子孫とするのは仮託で,実は低い身分の出身とする説があり,敗残の将が芸能民に身を寄せたとも考えられるから,系図などの伝承を大筋で認めてよいとする説などもある。この地には八坂神社があって,14世紀後期の記録に同社の舞人として幸若の名が見え,直詮も同社所属の舞人集団の出身と推定される。没年は1470年(文明2)とも80年とも伝え,享年は78,66,61歳とも伝える。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「桃井直詮」の意味・わかりやすい解説

桃井直詮
もものいなおあき

生没年不詳。幸若舞(こうわかまい)を創始したと伝えられる人物。幸若舞という名称は、直詮の幼名幸若丸に発するという。系譜によると祖父は南北朝時代(1336~92)の北陸の武将桃井直常(なおつね)。父の死後10歳にして越前(えちぜん)(福井県東部)を出て、比叡山(ひえいざん)の光林坊詮信のもとで学問修行に励んだが、そのおり草紙(そうし)に曲節をつけて謡ったのが幸若舞の始まりであるという。しかしこのような系譜は後年になって書かれたもので、桃井直詮を幸若舞の創始者とするには疑問が多い。

[高山 茂]

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朝日日本歴史人物事典 「桃井直詮」の解説

桃井直詮

没年:文明12(1480)
生年:応永10(1403)
室町時代前期の舞舞。幼名幸若丸。15~16世紀に流行した芸能である曲舞の一流,幸若舞の創始者とされ,比叡山で声明を学び,平曲にその曲節をつけたのがその始まりだという伝承がある。後小松上皇,後花園天皇や足利将軍家に仕え,晩年は朝倉孝景に従い越前に移り住んだ。絵所預土佐光信の筆による直詮の画像も残っており,当時彼が一介の芸能者というにとどまらぬ存在であったことを窺わせる。<参考文献>室木弥太郎『語り物の研究』

(石井倫子)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「桃井直詮」の解説

桃井直詮 もものい-なおあき

?-? 室町時代,幸若舞(こうわかまい)の伝承上の祖。
桃井直常(ただつね)の孫で,幼名は幸若丸。比叡(ひえい)山で声明(しょうみょう)をまなび,草子に節をつけて吟唱したことが幸若舞曲のおこりとされる。後小松上皇にまねかれ,のち越前(えちぜん)朝倉氏に保護されたという。没年は文明2年(1470)または12年。享年は78歳ほか諸説がある。

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