ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「猛安・謀克」の意味・わかりやすい解説
猛安・謀克
もうあん・ぼうこく
Meng-an Mou-ke; Mêng-an Mou-k`o
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中国、金王朝(1115~1234)の軍事および行政組織の単位、および統治者の呼称。金建国前の女真各部の首長は、平時には孛菫(ぼっきん)とよばれたが、戦時には軍事上の指導者となり、猛安または謀克とよばれた。猛安は千を意味する女真語ming-kan、謀克は里長や郷里を意味するmukeの音訳といわれる。金の太祖阿骨打(アクダ)は寧江(ねいこう)州の戦いののち、女真に古くからあった猛安・謀克制を金の兵制と定め、300戸を1謀克とし、1謀克から選ばれた兵で1謀克軍を編成し、10謀克をもって1猛安を組織した。猛安軍および謀克軍の指揮者も猛安・謀克とよばれた。金国の領土の拡大とともに東京道、上京道、中京道の女真人、奚(けい)人、契丹(きったん)人、渤海(ぼっかい)人などにも猛安・謀克制が施行された。太宗(在位1123~35)の末年から煕宗(きそう)(在位1135~49)の時代、多くの猛安・謀克戸が集団をなして華北の新占領地に移住させられた。彼らには土地と牛具が与えられ課税額も少なく優遇を受けたが、しだいに奢侈(しゃし)にふけり、生産から遊離して徒食し貧困化し、漢人との通婚も許されて血の純粋さも失われ弱体化した。1234年、金国がモンゴル軍に滅ぼされるとともに猛安・謀克制も崩壊した。
[河内良弘]
『三上次男著『金史研究 一』(1972・中央公論美術出版)』
金代の行政,軍事両面を兼ねた制度,また官名。300戸を1謀克,10謀克を1猛安とする2級行政組織に,1謀克から100人の兵を徴する軍事組織を重ねたもの。猛安・謀克はまた,行政組織の長であるとともに,軍隊の長でもあった。太祖阿骨打(アグダ)はこの部族的軍事制度を組織化し,軍人たる女真(じょしん)人,契丹(きったん)人に適用した。金の華北進出後は州県制と併用された。猛安は千を意味するming-kan,謀克は族長を意味するmukeという女真語の音訳。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
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