相楽総三(読み)さがらそうぞう

精選版 日本国語大辞典 「相楽総三」の意味・読み・例文・類語

さがら‐そうぞう【相楽総三】

江戸幕末期の志士下総国(茨城県)出身郷士の子として江戸で生まれる。本名、小島四郎左衛門将満。文久三年(一八六三)、赤城山挙兵計画に失敗し、翌年筑波山での挙兵に加わる。慶応四年(一八六八)、西郷隆盛の命により官軍先鋒隊の赤報隊結成東山道を進むが、偽官軍とされて信濃国(長野県)下諏訪で処刑された。天保一〇~慶応四年(一八三九‐六八

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デジタル大辞泉 「相楽総三」の意味・読み・例文・類語

さがら‐そうぞう〔‐ソウザウ〕【相楽総三】

[1839~1868]幕末の志士。本名、小島四郎左衛門将満。戊辰ぼしん戦争で官軍先鋒隊の赤報隊を組織して東山道を進軍したが、偽官軍とされ信濃下諏訪で処刑された。

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朝日日本歴史人物事典 「相楽総三」の解説

相楽総三

没年:明治1.3.3(1868.3.26)
生年:天保10(1839)
幕末維新期の尊攘派志士。名は将満,字は信臣,通称四郎左衛門,四郎。変名は相楽総三のほか村上四郎,内田四郎,二荒次郎。下総国相馬郡椚木新田(茨城県藤代町)出身の郷士小島兵馬の4男として江戸赤坂に生まれる。兵学と国学を修め,私塾を開いて門人の教育に当たるが,文久1(1861)年父より5000両を得て家を出,上野,信濃,越後,秋田など東国各地で同志を募る。同3年,慷慨組の赤城山挙兵を援助するが失敗。翌元治1(1864)年には水戸藩天狗党の筑波山挙兵に加わったが,途中で下山し江戸へ帰る。慶応2(1866)年3月上京して志士活動を続け,翌年秋,西郷隆盛の命令で江戸に帰って三田の薩摩屋敷に浪士隊を結成,総裁となる。江戸とその周辺で騒ぎを起こして幕府を挑発し,薩邸焼打ち事件を誘発。これにより薩摩藩は,倒幕の口実を手に入れることになった。明治1(1868)年1月京都に戻ると再び西郷から指令を受け,官軍先鋒隊の赤報隊結成に加わり,その1番隊隊長となる。総三自らが建白して太政官に採用された年貢半減令を布告しながら進軍するが,軍資金の不足に悩む維新政府は,財政の増収を図るため年貢半減令の取り消しを決定,赤報隊に引き返しを命じた。しかし総三および同志たちは嚮導隊と名乗って引き続き東山道を進軍。「偽官軍」として捕らえられ,3月3日,信濃国下諏訪において総督府の命により処刑された。<参考文献>長谷川伸『相楽総三とその同志』,高木俊輔『明治維新草莽運動史』

(高木俊輔)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「相楽総三」の意味・わかりやすい解説

相楽総三
さがらそうぞう
(1839―1868)

幕末維新期の志士。下総(しもうさ)国北相馬(茨城県取手(とりで)市)出身の郷士小島兵馬(こじまひょうま)の子として江戸・赤坂に生まれる。通称四郎。兵学と国学を修め、数え23歳で志士となり、主として上野(こうずけ)、信濃(しなの)、出羽(でわ)など東国で活動。1863年(文久3)上州赤城山(あかぎやま)の挙兵計画に失敗し、翌年3月筑波山(つくばさん)挙兵に加わるが水戸藩士と相いれず分かれた。のち西郷隆盛(たかもり)の指令により、江戸の薩摩(さつま)藩邸に浪士隊を結成し江戸騒乱を謀る。68年(慶応4)ふたたび西郷の命令で官軍先鋒(せんぽう)隊の赤報隊(せきほうたい)を結成。自らが建白して採用された年貢半減令を布告して東山道(とうさんどう)へと進軍するが、総督府側と対立を深め、「偽(にせ)官軍」として信濃国下諏訪(しもすわ)にて処刑された。

[高木俊輔]

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百科事典マイペディア 「相楽総三」の意味・わかりやすい解説

相楽総三【さがらそうぞう】

幕末・維新期の志士。赤報(せきほう)隊の隊長。本名小島四郎将満。江戸の生れ。平田流国学を学び,各地で尊攘派志士と交わり,赤城山で挙兵するが失敗。のち京都に出て西郷隆盛の指令を受け,浪士隊を率いて江戸市中攪乱を図る。戊辰戦争に際しては赤報隊を組織,年貢半減令を喧伝して東山道を進み,信濃に入ったが,新政府の年貢半減令取消しにともない〈偽官軍〉とされ,下諏訪(しもすわ)で部下とともに処刑された。
→関連項目偽官軍

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改訂新版 世界大百科事典 「相楽総三」の意味・わかりやすい解説

相楽総三 (さがらそうぞう)
生没年:1839-68(天保10-明治1)

幕末・維新期の志士。江戸赤坂に生まれる。本名小島四郎左衛門。父は下総の豪農で郷士。国学と兵学にすぐれ,上州・秋田などを遊歴して同志を募り,赤城山に挙兵するが失敗。筑波山挙兵にも途中で下山。のち京都に出て,西郷隆盛の指令を受け,江戸へ戻り薩摩屋敷に浪士隊を結成して江戸かく乱をはかる。再び上京後,官軍先鋒隊である赤報隊長となり年貢半減令を布告して進軍するが,偽官軍とされて下諏訪で処刑された。
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山川 日本史小辞典 改訂新版 「相楽総三」の解説

相楽総三
さがらそうぞう

1839~68.3.3

幕末期の尊攘派志士。下総国北相馬郡出身の郷士の子。本名小島四郎左衛門将満。江戸生れ。国学と兵学を修め,1861年(文久元)志士となり関東を中心に活動。天狗党の筑波山挙兵に参加,のち鹿児島藩江戸藩邸に浪士隊を結成し,江戸とその周辺地の攪乱にあたる。68年(明治元)1月赤報(せきほう)隊を結成,自分が建白して採用された年貢半減令を布告して東山道を進むが,東山道総督府に偽(にせ)官軍として捕らえられ斬首。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「相楽総三」の解説

相楽総三 さがら-そうぞう

1839-1868 幕末の尊攘(そんじょう)運動家。
天保(てんぽう)10年生まれ。慶応3年西郷隆盛の指令で浪士をあつめ,江戸騒乱をくわだてる。のち赤報隊をつくり,東征軍先鋒(せんぽう)として東山道をすすむが,「偽官軍」とされ,慶応4年3月3日信濃(しなの)(長野県)諏訪(すわ)で処刑された。30歳。江戸出身。本姓は小島。名は将満(まさみつ)。通称は四郎。変名は別に村上四郎など。

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旺文社日本史事典 三訂版 「相楽総三」の解説

相楽総三
さがらそうぞう

1839〜68
幕末の志士
江戸の人。1868年赤報隊を組織し,官軍の先鋒として東山道を進み年貢半減を布告したが,偽官軍とされて処刑された。

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世界大百科事典(旧版)内の相楽総三の言及

【赤報隊】より

…1868年(明治1)1月,鳥羽・伏見の戦に勝利した討幕側が組織した官軍先鋒隊の一つ。綾小路俊実・滋野井公寿の2卿を擁立し,京都の処士と元新撰組脱隊士,岩倉具視の内意を受けて来た近江水口藩士,西郷隆盛の指令を受けて加わった相楽(さがら)総三とその同志,などが寄り集まって近江松尾山で結成した。元新撰組隊士鈴木三樹三郎,水口藩士油川錬三郎とともに隊長となった相楽は,新政府に建白をして年貢半減令布告のことをひき出し,その後は新政と年貢半減令をともに布告しながら進軍した。…

※「相楽総三」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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