紀見峠(読み)きみとうげ

日本歴史地名大系 「紀見峠」の解説

紀見峠
きみとうげ

紀伊見きいみ峠・木の実きのみ峠ともいう。高野街道河内紀伊国境の峠。標高約四〇〇メートル。国境を示す老松が街道の東の山頂(四三七・九メートル)にあり、境界松とよばれたが、現在は枯死している。「河内名所図会」に「紀見嶺きのみとうげ 天見村の南にあり、紀州伊都郡の界也、天見より一里十七町あり」とある。紀見峠は軍事上重要な地点であった。正慶二年(一三三三)正月、甲斐かい安満見あまみ(天見)で合戦があり、紀伊国の御家人井上入道ら五〇余人が楠木軍に討ちとられた(楠木合戦注文)

紀見峠
きみとうげ

大阪府との境にあり、紀伊見きいみ(きのみ峠とも)ともいった。高野山開創により京・大坂からの参詣道の峠となり、葛城修験行場でもあった。南北朝時代、東北に楠木正成千早ちはや(現大阪府南河内郡)があり、戦略の要地となった。峠の民家裏に「一結衆二十七人墓、元中三年三月」銘の石造五輪塔がある。寛正四年(一四六三)三月一四日、河内竜泉寺りゆうせんじ(現大阪府富田林市)を追われた畠山義就は紀見峠を越えて高野山へ遁走しているが、「長禄寛正記」は義就の侍者の歌として「夏落ル木ノ実峠ノ行末ヲシラヌハゲニモ道理也ケリ」を載せる。

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改訂新版 世界大百科事典 「紀見峠」の意味・わかりやすい解説

紀見峠 (きみとうげ)

大阪府河内長野市と和歌山橋本市との境界にある峠で,国道170号線が葛城山脈を越える鞍部に位置する。標高約380m。紀伊見(きいみ)峠ともいう。峠道は平安時代初期に南海道の官道として整備され,次いで高野参詣が盛んとなってから高野街道と呼ばれた。高野街道は南河内から紀ノ川流域に至る唯一の幹線道路で,京都,大阪,堺方面からの高野山巡礼者の往来でにぎわい,江戸時代には峠に宿屋掛茶屋が並び,紀州藩によって番所が設置されていた。1915年の大阪高野鉄道(現,南海高野線)開通後,峠集落は急速にさびれた。現在の国道と南海電鉄はここをトンネルで通過する。近くに橋本林間田園都市が建設され,宅地開発が進んでいる。
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百科事典マイペディア 「紀見峠」の意味・わかりやすい解説

紀見峠【きみとうげ】

大阪から高野山へ通じる高野街道が,和泉山脈を越える峠。標高約380m。峠から紀伊国を望むのでこの名があり,高野山参拝でにぎわった。中世には軍事上の要所で,江戸時代には和歌山藩が番所を置いた。現在国道371号と南海電鉄高野線がトンネルにより通じる。
→関連項目金剛生駒紀泉国定公園

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「紀見峠」の意味・わかりやすい解説

紀見峠
きみとうげ

紀伊見 (きいみ) 峠ともいう。大阪府河内長野市と和歌山県橋本市の境にある峠。標高約 438m。大阪と高野山を結ぶ高野街道が和泉山脈を横切るところにあり,古くから高野山詣での往来が多かった。峠の南寄りに紀見という峠集落が発達したが,1900年に紀和鉄道 (現和歌山線) が,15年に大阪高野鉄道 (現南海電気鉄道高野線) が開通し,宿場機能が失われて集落は寂れた。現在,鉄道,国道 170号線とも峠の下を紀見トンネルで抜ける。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「紀見峠」の意味・わかりやすい解説

紀見峠
きみとうげ

和歌山県北東部の橋本市と大阪府河内(かわち)長野市との境にある峠。和泉(いずみ)山脈を越える峠で京・大坂からの高野街道(こうやかいどう)が通じた。峠からは紀伊国を一望できることから紀見峠または紀伊見峠という。宿場があり、江戸時代は和歌山(紀伊)藩の伝馬所も置かれた。1914年(大正3)南海電鉄高野線のトンネル開通以後衰えた。

[小池洋一]

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