デジタル大辞泉
「大森房吉」の意味・読み・例文・類語
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おおもり‐ふさきち【大森房吉】
- 地震学者。理学博士。福井県に生まれる。東京帝大教授。地震帯の発見、初期微動と震源との関係を表わす大森公式や大森式地震計の考案など、近代地震学の発達に寄与。帝国学士院会員。主著「地震学講座」。明治元~大正一二年(一八六八‐一九二三)
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大森房吉
おおもりふさきち
[生]明治1(1868).9.13. 福井
[没]1923.11.8. 東京,本郷
地震学者。近代日本において地震学を創設した一人となった。福井藩士の五男として明治1(1968)年9月13日(新暦 10月28日)に福井城下に生まれる。1890年帝国大学理科大学物理学科を卒業後,同大学院にて地震学,気象学を専攻。1891年理科大学から助手,翌 1892年には地震学取調を嘱託される。濃尾地震の発生をうけて,1892年震災予防調査会が設立され,委員として第1回会議に参加。1893年,自作の電動式地震計がシカゴ万国博覧会に展示され,同年理科大学講師となる。1894年,本震からの経過時間と余震回数の関係を表す公式を発表。1895~97年ヨーロッパに留学,帰国後,帝国大学改め東京帝国大学理科大学の教授に就任。1898年長周期地震計を制作し,翌 1899年には地震の初期微動継続時間から震源距離を算出する公式を発表。1905年に後輩の地震学者今村明恒が東京の大地震襲来を予測する記事を誌上に発表,世間の動揺を抑えるため今村の説を浮説と批判する。1917年震災予防調査会会長に就任。1923年学会出席のためオーストラリア滞在中に関東大震災が発生,帰国後すぐ病院に搬送され死去。
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大森房吉
おおもりふさきち
(1868―1923)
地震学者。福井県の生まれ。1890年(明治23)帝国大学(現、東京大学)理科大学物理学科を卒業し、大学院で地震学、気象学を専攻した。1892年震災予防調査会の設立とともに委員に就任、
1897年東京帝国大学教授となった。各種地震計の考案、地震帯の発見、余震の双曲線公式の発見、初期微動と震源距離の関係、脈動、潮位、津波、火山観測、建築物の震動測定、震災対策など多くの業績をあげている。
明治末から大正にかけての震災予防調査会の活動の中心人物でもあった。1905年(明治38)後輩の今村明恒(あきつね)が「近く大震災がある」と発表すると、人心の動揺を鎮めるために今村の説を批判し、大論争になった。関東大震災(1923)のときは外遊中で、帰国後も病床にあって動けず、壊滅した東京に責任の重大さを感じながら死去した。主著に『地震学講話』がある。
[藤井陽一郎]
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大森 房吉
オオモリ フサキチ
明治・大正期の地震学者,火山物理学者
- 生年
- 明治1年9月15日(1868年)
- 没年
- 大正12(1923)年11月8日
- 出生地
- 越前国福井(福井県福井市)
- 学歴〔年〕
- 帝国大学理科大学(現・東大)物理学科〔明治23年〕卒
- 学位〔年〕
- 理学博士〔明治31年〕
- 経歴
- 卒業後大学院に進み、英国から招かれたミルン教授の下で地震学を研究。明治24年の濃尾地震の際、余震調査に当たり、翌年設立の震災予防調査会の委員、のち幹事・会長を務めた。27年ドイツ、イタリアに留学、30年東京帝大教授となり、以来、京都、福岡の各帝大理科の教授・講師を併任。大森式地震計、地震動に関する大森公式などの業績をあげ、万国地震学協会の設立に尽力。また35年の伊豆鳥島爆発調査から火山研究にも力を入れ、44年日本最初の火山観測所を浅間山に設け、日本の火山物理学を開拓。大正12年第2回汎太平洋学術会議に出席の途中、病に倒れた。著書に「地震学講話」「日本噴火誌」「地震験測法一班」「日本に於ける津波に就きて」などがある。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
大森房吉 (おおもりふさきち)
生没年:1868-1923(明治1-大正12)
明治・大正期の日本の代表的地震学者。福井の生れ。1890年帝国大学理科大学物理学科卒業。翌91年濃尾地震が発生し,このあと92年震災予防調査会が設立されたが,この委員となって活躍した。97年東京帝国大学教授。1906年学士院会員。地震学上の業績は,(1)日本地震史の研究,(2)大森式地震計をはじめ各種地震計の開発,(3)地震多発地帯である地震帯の発見,(4)余震の双曲線的減衰の公式,(5)初期微動と震源距離の関係式(大森公式)の発見,(6)脈動の研究,(7)潮位の変化の研究,(8)津波の研究,(9)火山の観測,(10)建築物の振動測定,などきわめて多岐にわたる。1905年今村明恒が統計的見地から関東地震を予言したとき,これに反対して大論争をした。23年関東地震が発生したとき大森は外国旅行中であったが,帰国して震災の甚大であったことを知り,病室の彼を訪れた今村に対し,かつての論争についての非を詫びたといわれる。
執筆者:藤井 陽一郎
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大森房吉
没年:大正12.11.8(1923)
生年:明治1.9.15(1868.10.30)
明治大正期の地震学者。福井の生まれ。明治23(1890)年帝大理科大学物理学科を卒業。大学院で地震および気象学を専攻。25年震災予防調査会設立とともに委員となる。ドイツ,イタリアに留学後,地震学教授となり終生地震学研究に専念する。この間,国内地震はもとより海外の大震災にも出張踏査したのをはじめ日本代表としてしばしば国際会議にも出席する。これらの調査報告および学術論文は和欧文を含めて200編以上にのぼる。当時を代表する著作に『地震学講話』(1908)がある。地震学上の業績に①大森式地震計,微動計の考案②地震帯の発見③初期微動と震源距離との関係(大森公式)④余震頻度の式⑤潮位,津波の研究⑥建築物の振動測定(耐震試験)などがあげられる。大森を助けた後輩の地震学者今村明恒の働きも大きく,地震予知説論争では相対立したが,体系をととのえた功績は大きい。大森を中心に樹立された地震学は,大正12(1923)年発生した関東大震災によりさらに多くの貴重な実質的資料が得られ,日本の地震学を発展させた。オーストラリアでの汎太平洋学術会議に出席中に関東大震災の悲報を知り,急ぎ帰国の船中で倒れ,同年死去。<参考文献>藤井陽一郎『日本の地震学』
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
大森房吉【おおもりふさきち】
地震学者。福井市生れ。1890年東大卒。1897年東大教授。日本の近代地震学の指導的開拓者。国内国外の多くの地震を調査,文部省内の震災予防調査会の委員としても活躍。大森式地震計の考案,初期微動継続時間と震源距離の関係式(大森公式),地震帯の発見,余震,脈動,津波,火山,建築物の耐震研究,震災対策などその業績は地震学の全領域にわたる。
→関連項目今村明恒|地震
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大森房吉
おおもりふさきち
1868.9.15~1923.11.8
明治・大正期の地震学者。福井県出身。東大卒。ヨーロッパ留学後,東京帝国大学教授。地震の統計的研究で業績を残す。初期微動の継続時間と震源までの距離の関係を表す大森公式で知られる。地震学からみた建築法を研究,日本の地震記録をまとめ,大森式地震計を考案。震災予防調査会をつくり予防対策に力をいれた。関東大震災発生でオーストラリアから帰国途中に病に倒れた。万国地震学会協会設立に尽力。著書「地震学講話」。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
大森房吉 おおもり-ふさきち
1868-1923 明治-大正時代の地震学者。
明治元年9月15日生まれ。30年東京帝大教授。大森式地震計の考案や地震帯の発見などで知られる。震災予防調査会委員として活動。今村明恒の関東大震災の予測に反対して論争した。学士院会員。大正12年11月8日死去。56歳。越前(えちぜん)(福井県)出身。帝国大学卒。著作に「地震学講話」など。
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大森房吉
おおもりふさきち
1868〜1923
明治・大正時代の物理学者
福井県の生まれ。東大卒業後,関谷清景のあとを継いで地震学を専攻し,東大教授となる。大地震の余震の研究,耐震建築,地震帯の発見,地震史資料編集,大森式地震計の考案など,わが国近代地震学の発展に貢献した。
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
大森 房吉 (おおもり ふさきち)
生年月日:1868年9月15日
明治時代;大正時代の地震学者。理学博士
1923年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報