ベイユ(その他表記)Simone Weil

改訂新版 世界大百科事典 「ベイユ」の意味・わかりやすい解説

ベイユ
Simone Weil
生没年:1909-43

フランスの実存的思想家。ユダヤ系の医師を父にパリに生まれ,エコール・ノルマル・シュペリウールを卒業後,ル・ピュイ市の高等中学校哲学教師となる。ここでサンディカリストと交わって労働組合運動を支援した。34年12月から翌年7月までアルストムとルノーの工場で現場の生活を体験し,彼女自身の激しい頭痛と不眠がこれに合わさって〈人間の悲惨〉をなめつくしたという。その後再び教師生活にもどったが,スペイン内戦のさい人民戦線派義勇軍に応募した。38年ソレムの修道院で〈苦しみのうちに神の愛を愛するキリスト受難の思想〉を深く体験したという(《ペラン神父への別れの手紙》)。40年ドイツ軍によるパリ陥落後マルセイユに行ってペラン神父を知り,農民哲学者として知られたティボンGustave Thibonとも交わった。42年アメリカに亡命し,その後ド・ゴールのひきいる自由フランス軍に加わるべくロンドンに渡ったが,過労に倒れて客死した。ベイユは,資本主義のみならず社会主義にも食い込んで国家をも労働組合をも支配する官僚主義を〈党派〉〈太った動物〉と呼んで批判し,身をもってその罪悪を味わったのであるが,苦難のなかで〈恩寵の重力〉と〈待ち望み〉を学んで,霊魂の普遍的共同体を求めつつ歩いた。G.マルセルは彼女を〈絶対的なものの証人〉と呼んで実存思想家のひとりに数えている。主著として《重力と恩寵》(1947),《超自然的認識》(1950),《神を待ち望む》(1950)などがあり,邦訳も多くなされている。なお,数学者アンドレ・ベイユはその兄。
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ベイユ
André Weil
生没年:1906-98

フランスの数学者。パリに生まれ,1925年にエコール・ノルマル・シュペリウールを卒業したが,就職は幸運といえず,最初の定職は30年から2年間のインドアリーガルのムスリム大学の教職であった。32年にフランスへ帰り,マルセイユ大学に1年間いて,ストラスブール大学へ移った。40年のドイツ軍による占領と彼自身ユダヤ系ということにより,41年にアメリカへ亡命したため,その後数年間定職なしであった。やがてブラジルのサン・パウロ大学に職を得,48年にシカゴ大学,58年にはプリンストン高等研究所へ移った。数学研究の対象は多様であるが,そのうち中心的なものは,代数幾何学の再構成と代数幾何学を応用した整数論の研究である。また,ブールバキの名で知られる研究者グループの初期(1934-56)における中心人物であった。ブールバキの《数学原論》の〈歴史覚書〉のうち,位相と微積分に関する部分はベイユが執筆したと伝えられる。72年以後は数学史についての研究が多い。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ベイユ」の意味・わかりやすい解説

ベイユ
Veil, Simone Annie

[生]1927.7.13. ニース
[没]2017.6.30. パリ
フランスの政治家。ヨーロッパ議会議長(在任 1979~82)。第2次世界大戦中の 1944年,ビシー政府下においてユダヤ人であることを理由にドイツに移送され,両親と兄を強制収容所で亡くす。1945年に解放されて帰国した。パリ政治学院(通称シアンスポ。→グランゼコール)で学んだのち,1954年に判事資格を取得。1970年高等司法会議の事務総長の座につき,1974年5月にシラク政権の厚生大臣に就任,フランスで二人目の女性閣僚となる。1977年からは電力・核エネルギー情報会議の議長を兼任,1978年4月には人工妊娠中絶の合法化に関する法案を成立させた。また 1979年6月,初のヨーロッパ議会直接選挙が実施され,みずから「ヨーロッパにおけるフランスのための同盟」を率いて得票率 27.6%で第一党に躍り出た。1979~93年にかけてヨーロッパ議会議員として活躍し,特に 1979~82年には同議会議長を務めた。1993~95年バラデュール政権の社会問題・都市厚生担当大臣,1998~2007年憲法評議会の評議員を務めた。国葬後,パリのパンテオンに埋葬された。

ベイユ
Weil, Simone

[生]1909.2.3. パリ
[没]1943.8.24. ケント,アッシュフォード
フランスの女性思想家。数学者 A.ベイユの妹。思想と行動,教義と経験の一致を求め,死後出版された著作は戦後の社会思想に大きな影響を与えた。5歳でラシーヌを引用する早熟ぶりを示し,エコール・ノルマル・シュペリュール (高等師範学校) で哲学と古典語を学び,1931年から各地のリセ (高等中学校) で哲学を教えた。その間,1934~35年女工として自動車工場で働き,労働者の悲惨な生活をみずから体験した。 1936年夏スペイン内乱の義勇軍に参加するが,絶対的平和主義に傾く。ソレームの修道院で聖歌を聞き,神秘的体験をした。ユダヤ人でありながら反ユダヤ的宗教観をもち,カタリ派を真のキリスト者とした。 1942年両親とアメリカに亡命したが,イギリスに戻りドゴールの「自由フランス」に参加,占領下の同胞と同じ食生活を行ない,栄養失調と結核で没した。作品には,宗教的瞑想録『重力と恩寵』 La Pesanteur et la Grâce (1947) ,解放後の祖国のありうべき姿を描いた『根づき』L'Enracinement (1949) ,精神的自伝『神への待望』 Attente de Dieu (1950) ,『労働の条件』 La Condition ouvrière (1951) ,『手帖』 Cahiers (3巻,1951~56) ,マルクス主義批判『抑圧と自由』 Oppression et Liberté (1955) など。

ベイユ
Weil, André

[生]1906.5.6. パリ
[没]1998.8.6. ニュージャージー,プリンストン
フランスの数学者。思想家 S.ベイユの兄。エコール・ノルマル・シュペリュール (高等師範学校) 卒業。 1928年にいわゆるモーデル・ベイユの定理で学位取得。インドのアリーガル大学で教え (1930~32) ,ゲッティンゲンに留学 (32~33) ,ストラスブール大学助教授 (33~40) 。ストラスブール時代にはアーベル関数の拡張 (38) ,一様空間の理論 (38) ,位相群上の測度と積分 (40) など,重要な業績を上げた。ブラジルのサン・パウロ大学で教えた (45~47) のち,アメリカに定住し,シカゴ大学教授 (47~58) 。 58年よりプリンストン高級研究所の研究員。合同式ゼータ関数についての G.リーマンの予想を証明した詳細を3部作,『代数幾何学の基礎』 (46) ,『アーベル多様体と代数曲線』 (48) ,『代数曲線とそれに関連した多様体』 (48) に発表。また 30年代から,J.デルサルト,C.シュバレーらとともに数学者集団「N.ブールバキ」を組織し,現代数学の再構成のために活躍した。

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百科事典マイペディア 「ベイユ」の意味・わかりやすい解説

ベイユ

フランスのユダヤ系女性哲学者。エコール・ノルマル卒。リセ時代の師はアラン。哲学教師,工場労働者を経て,スペイン内戦時は人民戦線派義勇軍に参加した。アメリカ亡命ののち,ロンドンで餓死同然に客死。キリスト受難の幻視,ギリシア哲学,現代官僚主義批判をモティーフとする特異な実存思想家。主著《重力と恩寵》(1947年),《超自然的認識》(1950年),《神を待ち望む》(1950年)。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ベイユ」の意味・わかりやすい解説

ベイユ(André Weil)
べいゆ

ベーユ


ベイユ(Simone Weil)
べいゆ

ベーユ

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20世紀西洋人名事典 「ベイユ」の解説

ベイユ


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