改訂新版 世界大百科事典 「シンマクス」の意味・わかりやすい解説
シンマクス
Quintus Aurelius Symmachus
生没年:340ころ-402
ローマ元老院貴族で,有名な雄弁家。名門の出で,ボルドー出身の修辞学者から教育を受けたのち,当時の元老院貴族に典型的な,すでに有名無実化していた公職序列を上り始め,また365年までに上級祭司団の一員となる。369年元老院を代表してガリアにウァレンティニアヌス1世を訪れ,即位5周年の祝賀演説を行い,翌年までガリアに滞在,この間にアウソニウスとの友情を結んだ。373-374年アフリカのプロコンスルを務める。彼はプラエテクスタトゥスPraetextatusやニコマクス・フラウィアヌスNicomachus Flavianusとともに,ローマ元老院内の異教勢力の中心人物であった。382年グラティアヌス帝が異教や異教神官への国庫補助廃止などを命じる反異教勅令を出し,加えて元老院議場からのウィクトリア女神祭壇撤去を命じると,彼は祭壇の復帰を請願する元老院代表として宮廷に派遣されたが,ミラノ司教アンブロシウスの教唆を受けた皇帝に拝謁を許されなかった。383年グラティアヌスは奪帝に倒され,翌384年ローマ都督に任じられたシンマクスは,この機を利してウァレンティニアヌス2世に拝謁を願い出て許され,ミラノ宮廷でウィクトリア女神祭壇の復帰と反異教勅令の撤回を請願する演説を行った。その中で彼は,父祖伝来の神々はかくも長い間ローマに繁栄を与えることによってその真理性を証明しているのだから,いま安全と繁栄を欲するならば,この神々への祭儀を尊重しなければならないと訴えている。この演説は,当時の元老院貴族層の宗教観やローマ理念を反映し,キリスト教化が浸透していくローマ帝国にあって最後の抵抗を続ける異教勢力の思想を端的に示して興味深い。だが,この請願演説もアンブロシウスの反論に遭って失敗に終わった。
385年初頭ローマ都督職を辞したシンマクスは,奪帝マクシムスに頌詩を献じるが,奪政権(383-388)瓦解後,謝罪演説と頌詩献呈によってテオドシウス1世から恩赦を与えられ,391年にはコンスルに任じられた。このときの教訓から,ニコマクス・フラウィアヌスがエウゲニウスを擁立したとき(392-394)には,フラウィアヌスとの友情は固持しながらも自重したようで,元老院内の指導的立場を晩年まで守った。演説8編と書簡集10巻が残っており,書簡集は小プリニウスにならって第9巻までが私信,第10巻がローマ都督在任中の公信を集めている。彼を中心とする異教的貴族のサークルは,リウィウスなど古典作家の研究・伝承にも尽力した。
執筆者:後藤 篤子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報