日本音楽の一種目。1分ないし3分程度の小歌曲。大半は作詞・作曲者未詳であるが、江戸末期の名ある文化人の手になったものが多いという。日本全国で愛唱され、幕末から明治期にかけて非常に流行した。だれもが知っていたという点では、義太夫(ぎだゆう)節とともに双璧(そうへき)をなす。ことに、他の種目のように劇場や花柳界が背景ではなく、家庭音楽としてもてはやされただけに、江戸庶民の健康的な精神構造や、格調の高い音楽性がうかがえる。「はうた」ということばは、17世紀末の『吉原はやり小歌そうまくり』や『松の葉』にみられるが、どのような音楽か明らかでない。時代が下って1842年(天保13)天保(てんぽう)の改革における禁令の一つとして、「浄瑠璃(じょうるり)、はうた、稽古(けいこ)いたすまじきこと」という御触れが出た。通達の指摘する「はうた」とは、『桜見よとて』『夜ざくら』『紀伊の国』『わしが国さ』などである。その後は、京都の歌『京の四季』『御所のお庭』、大坂の歌『淀(よど)の川瀬』『ぐち』などが、江戸の歌『秋の夜』『わがもの』『春雨』『綱は上意』などとともに人気を博した。稽古屋も江戸や大坂では各町内に誕生し、たとえば二見勢連(ふたみせれん)や轟連(とどろきれん)といった名前を、それぞれが名のっている。その一つ歌沢連(うたざわれん)が端唄のなかで一大勢力を形成し、劇場や花柳界へ進出したため、端唄の体質が変えられてしまう。また1880年代(明治初期)新しくおこってきた明清楽(みんしんがく)や唱歌の影響で庶民の歌声は急速に変質し、端唄は明治中期に至って衰微した。尾崎紅葉(こうよう)や幸田露伴(ろはん)がその再興を願ったこともある。
大正以降はレコードや放送などの大資本が、端唄、俗曲、民謡などの概念規定をなおざりにし、さらに芸妓(げいぎ)や一部の芸能人が歌い崩したため、早くも昭和初期には端唄の実態が不分明になってしまった。ことに、現代とは違って庶民文化が軽視される風潮下、端唄には一顧すら与えられなかった。そして「端唄」ということばも、世間はほとんど忘れてしまった。ところが、明治百年といわれた1968年(昭和43)根岸登喜子(ときこ)(1927―2000)は「端唄の会」を開催して、江戸庶民の息吹を再現した。以来、毎年1回ずつ催されるこの会によって端唄の価値は再認識され、端唄に注目する層が着実に増え始めている。端唄は新しくよみがえり、現代の文化として定着した。
なお、地唄(じうた)や琵琶(びわ)にも「端唄」という呼び名はあるが、いずれも曲目の分類名にすぎないのでここでは割愛した。
[倉田喜弘]
『根岸登喜子著『はうたの文化史』(1973・端唄研究会)』
日本音楽の種目。劇場音楽(義太夫節,清元,長唄など)や花柳界の音楽(河東節(かとうぶし),一中節(いつちゆうぶし)など)とは違って,一般の庶民が支えた短詞型の三味線音楽。大流行した最初の歌は《潮来節(いたこぶし)》で,1780年代(天明ころ)から半世紀にわたって各地で歌われた。次いで《夜桜》《ほれて通う》《わしが国さ》などが生まれ,はやり歌としても愛唱される。1842年(天保13)天保の改革によってこうした歌は禁じられたが,政策が緩むにつれて新曲が続出し,1840年代(天保末~嘉永初め)から流行歌(はやりうた)を含めた庶民の歌に,〈端唄〉という名称が冠せられる。端唄の全盛期は1850年代から70年代(嘉永~明治初期)にかけてで,劇場も花柳界も端唄を無視できなかった。だが文明開化を経て西洋崇拝の風潮が強まるとともに,端唄は急速に衰退した。かつて文人墨客の手がけた《夕ぐれ》《春雨》《紀伊の国》《京の四季》などが歌われなくなるのを嘆いて,尾崎紅葉や幸田露伴が〈端唄会〉(1901)を催したが,大勢の挽回はできず,1920年代には端唄という名称も音楽も,世間はほとんど忘れ去った。しかし,芸の伝承は絶えることなく,藤本琇丈やその門下の根岸登喜子ら幾人かの有能な演奏家によって継承され,第2次世界大戦後,愛好者層を増やしつつある。
執筆者:倉田 喜弘
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邦楽の種目名。江戸末期に命名された小編の民衆歌謡の総称で,浄瑠璃・長唄や民謡などに属さない三味線音楽。一般に三味線音楽は芝居や花街と深くかかわるが,端唄は庶民の生活を背景とし,時代をこえて訴える要素が強い。天保の改革による庶民の三味線演奏の禁制がゆるむにつれ,流行歌(はやりうた)がつぎつぎとうまれて大流行となり,端唄と名づけられた。1853年(嘉永6)には愛好者のグループから歌沢が誕生。しかし明治20年代になると急速に衰退し,大正期以降に爪弾(つまびき)の小唄がうまれた。端唄作者の大半は未詳だが,歌人中島棕陰(そういん)の作詞とされる「京の四季」や,新宮藩江戸家老が作った「紀伊の国」など,文化人の作品が多いと推定される。1968年(昭和43)根岸登喜子が復興運動を始め,改めて世間の注目を集めている。代表曲「春雨」「夕ぐれ」「秋の夜」「わがもの」。
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…日本の小編の歌謡。小哥などとも書かれるが,江戸初期までは〈小歌〉,現代の三味線音楽の種目名としては〈小唄〉が普通である。
[中世小歌]
主として室町時代の中期以後に,平安時代や鎌倉時代の催馬楽,今様,宴曲(早歌(そうが))などの歌謡に代わって,広く公家,武士,僧侶,庶民の各階層間に愛唱された自由律の比較的短小詩型の流行歌謡。小歌の名称は,古く981年(天元4)写の《琴歌譜》に,〈自余ノ小歌ハ十一月ノ節ニ同ジ〉とか,《江家次第(ごうけしだい)》1111年(天永2)11月中の丑日,五節帳台の試(こころみ)の条に,〈大哥小哥声ヲ発スルコト恒ノ如シ〉,《雲図抄・裏書》1122年(保安3),五節次第・丑日の条に,〈次イデ大歌歌笛ヲ発シ,小歌相和ス〉とあるように,平安時代の記録に見える〈小歌〉は,本来,新嘗祭または大嘗祭の陰暦11月,中の丑日に行われる〈五節舞(ごせちのまい)〉のとくに帳台の試の際,大歌(人)が発する歌笛の伴奏に対して,出歌(いだしうた)を唱和するところの小歌(女官)という職掌名を指したものである。…
…三味線音楽の一種。かつては盲人音楽家を伝承・教習の専業者とし,箏曲とも関連しつつ,おもに京都,大坂を中心に発展してきたもので,室内音楽として最も普及した芸術音楽。上方の舞の地(伴奏)に用いられる楽曲もある。古くは盲人の扱った三味線音楽を総称して〈弦(絃)曲〉ともいい,語り物の〈浄瑠璃〉に対して,単に〈歌(うた)〉とも〈歌曲〉ともいったが,江戸ではこれを〈上方歌(唄)〉ともいい,また,専業者の関係から〈法師歌〉ということもあった。…
…江戸時代の歌謡集。寛文(1661‐73)ころ,江戸吉原の遊里で流行した歌謡を集めたもの。現在原本は伝わらず,刊年,版元,編者等も不明であるが,伝本の〈寛政版〉には,寛文2年(1662)中嶋屋伊左衛門刊とある。また,柳亭種彦の《吉原書籍(しよじやく)目録》は,延宝・天和年間(1673‐84)ころの刊とする。伝本には〈寛政5年(1793)版〉〈文政2年(1819)版〉〈鹿の子版(刊年不明)〉の3系統がある。…
※「端唄」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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