沖縄県,沖縄島(本島)中部の東海岸にある市。2005年4月石川(いしかわ)市,具志川(ぐしかわ)市と勝連(かつれん)町,与那城(よなしろ)町が合体して成立した。人口11万6979(2010)。
うるま市北西部の旧市。1945年市制。人口2万1992(2000)。第2次世界大戦前は美里村の一集落にすぎなかったが,大戦終了直後から難民収容所に指定されて一時は人口3万5000人にも達したため,農村集落の東恩納,伊波,嘉手苅,楚南,山城の村落を合わせて美里村から分離して,45年9月戦後第1号の市制を施行した。そのころ沖縄諮詢会(琉球政府の前身)が発足して,東恩納に設置されたため,一時は沖縄の政治・文化の中心地となった。その後琉球政府は佐敷町新里(現,南城市)へ,さらに那覇へ移動し,住民もそれぞれの故地へ引き揚げたため人口は減少した。沖縄市と同様基地の設定とともに都市化したもので消費都市の性格をもち,アメリカ軍施設の石川ビーチは72年地主に返還され市街地は拡大した。都市の発展策として1970年前後に沖縄県警察学校,沖縄海員学校,石川少年自然の家,石川浄水場などの公共施設が誘致され,71年には赤崎埋立地が完成し,都市型企業誘致に力が入れられている。市街地の背域では,花卉,サトウキビ,ミカンが栽培され,豚を主とした畜産も行われる。市街地以南はカルスト台地となり,台地縁辺には伊波貝塚(史),石川古我地原貝塚などの遺跡が分布する。沖縄自動車道の石川インターチェンジがある。
執筆者:田里 友哲
うるま市南端の旧町。旧中頭(なかがみ)郡所属。人口1万3581(2000)。太平洋に突出する与勝(よかつ)半島(勝連半島)の大部分と浜比嘉(はまひが)島,津堅(つけん)島を含み,半島部はおおむね標高50m以下の石灰岩の台地をなす。琉球王朝時代の15世紀前半は阿麻和利の居城であった勝連城(跡は史跡)が大きな勢力圏をもっていて,勝連文化とも称せられる隆盛期であった。半島の突端,平敷屋(へしきや)で産する建設用石材トラバーチンは,第2次世界大戦前に国会議事堂の表玄関に使用された。現在,町域の14%はアメリカ軍の基地が占め,半島部ではサトウキビの栽培,津堅島では沿岸漁業のほか,近年農地の整備が進みニンジン栽培が盛ん。浜比嘉島では沿岸漁業とスイカ,メロンの栽培が行われる。浜比嘉島とは半島部と橋で結ばれる。
執筆者:堂前 亮平
うるま市中部の旧市。与勝半島の基部に位置する。1968年市制。人口6万1061(2000)。北東は金武(きん)湾に,南は中城(なかぐすく)湾に臨む。旧石川市,沖縄市,旧勝連町,旧与那城町と隣接し,与勝半島への交通の要地である。古代の具志川間切は,1879年の廃藩置県を経て1908年の特別町村制の施行まで継承され,施行後,具志川村となった。18世紀以降,首里,那覇の貧窮士族が帰農して屋取(やどり)集落という開拓集落を形成したが,具志川ではこれらの士族帰農者が人口の大半を占めた。サトウキビを主産物とする農村地域であったが,第2次世界大戦後は基地の町として成長した。市面積の約10%が,アメリカ軍基地となっている。天願川や豊富な地下水,湧水などの好条件を生かして,消費都市から生産都市への脱皮をはかっている。農業ではサトウキビに加えて,近年花卉,野菜の栽培が盛んになってきた。また,肉用牛,豚などの畜産も行われる。市街地は県道24号線と8号線の沿線に線状に発達する。1965年中部病院(現在は県立)の誘致に成功し,都市づくりが急速に進んだ。
執筆者:田里 友哲
うるま市南東部の旧町。旧中頭郡所属。人口1万3358(2000)。1994年与那城(よなぐすく)村が改称・町制。与勝半島北半部と藪地(やぶち)島,平安座(へんざ)島,宮城(みやぎ)島,伊計(いけい)島などの島々からなる。平安座島と宮城島は埋立てにより1島になり,与勝半島と平安座島は海中道路で結ばれている。さらに,宮城島と伊計島との間にも伊計大橋が1982年完成した。半島部は台地状,島嶼(とうしよ)部は石灰岩の低平な地形をなす。かつては漁業や海運業に従事する人が多く,山原船(やんばるせん)を利用した物資の運送に活躍していた。また船大工が多いことでも知られる。1971年,平安座島に石油備蓄基地(CTS)の建設が始まり,埋立地の造成も進んで,与勝海上公園に指定された周辺の美しい海は一変した。農業はサトウキビを基幹作物としてイグサや野菜などの栽培も行われている。また,豚・採卵鶏の畜産も盛ん。
執筆者:堂前 亮平
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
沖縄県、沖縄本島中部にある市。東海岸に位置し、金武湾(きんわん)に臨み、与勝半島(よかつはんとう)、藪地島(やぶちじま)、平安座島(へんざじま)、宮城島(みやぎじま)、伊計島(いけいじま)、浜比嘉島(はまひがじま)、津堅島(つけんじま)など、与勝諸島の島嶼(とうしょ)を含む。2005年(平成17)、石川市(いしかわし)、具志川市(ぐしかわし)、中頭(なかがみ)郡与那城町(よなしろちょう)、勝連町(かつれんちょう)が合併して成立。市名の「うるま」は珊瑚の島を意味する。北は国頭(くにがみ)郡金武町、恩納(おんな)村、西から南は沖縄市に接する。市域の大部分は開析(かいせき)された台地、丘陵地で、金武湾、中城(なかぐすく)湾に面する沿岸部は低地、島嶼部は石灰岩の低平な島である。南北に沖縄自動車道が通り、石川インターチェンジがある。ほぼ平行して国道329号が通る。半島部と平安座島は全長4.75キロメートルの海中道路で連結し、平安座島と浜比嘉島は浜比嘉大橋で結ばれる。平安座島と宮城島との間は埋め立てられ、宮城島と伊計島間には伊計大橋が架かる。半島部と藪地島の間は藪地大橋で結ばれ、半島部の平敷屋(へしきや)港から津堅島へ定期船が就航。
伊計島には約2500年前の貝塚時代中期の仲原遺跡(なかばるいせき)(国指定史跡)がある。与勝半島の付け根近くにある勝連城跡(国指定史跡。ユネスコの世界遺産に登録)は、15世紀前半、『おもろさうし』に謡われた阿麻和利(あまわり)の居城。勝連の繁栄は京都にも鎌倉にもたとえられたという。具志川地区はジャーガルとよばれる肥沃な土壌に恵まれ、第二次世界大戦前はサトウキビの生産量が沖縄一を誇った。明治期、無禄(むろく)士族が多数帰農して屋取(ヤードイ)集落を形成した。戦後は具志川地区の高江洲(たかえす)一帯が避難民の収容地区に指定されて人口が急増、アメリカ軍の指令により高江洲市、のちに付近を統合して前原(まえはら)市が成立(一部は現、宜野湾(ぎのわん)市にもおよぶ)、文教学校、外語学校(ともに琉球大学の前身)などがあった(順次那覇へ移転)。石川地区にも沖縄戦により避難民収容所が設置された。1945年(昭和20)には琉球(りゅうきゅう)政府の前身である沖縄諮詢会(しじゅんかい)が設立され、沖縄の政治、経済、文教の中心地となった。1946年沖縄諮詢会は、その機能を沖縄中央政府(のちの沖縄民政府)に引き継いで解消した。その後、沖縄中央政府は佐敷(さしき)町に移り、避難民も故郷に帰村、人口は急減した。
現在もアメリカ軍用施設を抱えるが、豊富な水資源と肥沃な土地を利用したサトウキビ、イグサ、ミカン、メロン、マンゴーや花卉(かき)栽培のほか、津堅島のニンジン、肉用牛、養豚などの畜産、金武湾、中城湾、浜比嘉島、津堅島の沿岸漁業が盛ん。また中城湾で新港地区開発が進められ、加工交易型産業、半導体製造業などの拠点となっている。平安座島には大規模な石油備蓄基地がある。貝塚時代前期の伊波貝塚(いはかいづか)(国指定史跡)、貝塚時代中期のシヌグ堂遺跡、安慶名城跡(あげなじょうあと)(国指定史跡)、伊波城跡などの文化財、宇堅(うけん)ビーチ、伊計ビーチなどでの海水浴や釣り、7000人を収容できる安慶名闘牛場での観光闘牛など、観光の発展も図られている。面積87.02平方キロメートル(一部境界未定)、人口12万5303(2020)。
[編集部]
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