近代資本主義の内面的矛盾が生んだ、労働者階級の階級的自覚と要求に立脚した文学のこと。理論的には早く、マルクス、エンゲルスらによって論じられていたが、それが世界的同時性において多発化したのは、1917年のロシア革命の成功と、それに続くコミンテルンの結成(1919)以後である。
[大久保典夫]
まず、ロシアだが、革命がもたらしたもっとも重大な変化がプロレタリア文学の目覚ましい勃興(ぼっこう)だろう。概略すれば、「戦時共産期」(1917~21)、プロレタリア文化運動の中心機関になったのがプロレトクリト(プロレタリア文化協会)で、プロレタリア文学運動は、プロレトクリトの運動の一部として生まれた。プロレトクリトの目的は、プロレタリア階級の新精神文化を創造し、プロレタリアートをイデオロギーの領域においても指導階級たらしめることにあり、その階級文化の原則を集団主義と規定したが、この時期は革命的浪漫(ろうまん)詩と煽情(せんじょう)詩が主流で、人類最初のプロレタリア作家団体「クーズニツア」(鍛冶(かじ)屋)が組織される。続く「新経済政策期」(1921~29)は、ソビエト文学の復興期で、現実的・客観的なリアリズムが尊重され、国内戦を基本テーマにしたリベジンスキーの『一週間』やセラフィモービチの『鉄の流れ』などのプロレタリア小説が、個人の行為を透かしてその背後に集団の渾然(こんぜん)たる力を浮かび上がらせるのに成功する。そして1925年「全ロシア・プロレタリア作家協会」(略称ワップ)が成立。プロレタリア・イデオロギーと高度の芸術性の一致が要求され、「生きた人間」を描くことが主張される。この主張を裏づけた画期的作品として、ファデーエフの『壊滅』(1927)が現れ、個人の心理により多くの注意を集中している点が注目された。翌28年「第1回全連邦プロレタリア作家大会」が開催され、形骸(けいがい)化した「ワップ」を解消、各連邦ごとに独自の作家同盟を置き、その上に各同盟の統一機関「ブォアップ」をつくったが、全連邦の中心的勢力としてロシア・プロレタリア作家協会(ラップ)の活躍が目だつようになる。創作方法として心理主義的リアリズムを提唱した。
しかし、「社会主義建設期」(1929以降)に入ると、「ラップ」の創作方法としての心理主義的リアリズムが批判され、プロレタリア文学運動の「ボリシェビキ」化が決議され、リアリズムとロマンチシズムの混合形態が現れる。続いて1934年、単一のソビエト作家同盟が成立し、社会主義的リアリズムをソビエト芸術文学の基本的方法と決めるに至る。そのもっとも早い現れがゴーリキーの『四十年』(1925~36、原題『クリム・サムギンの生涯』)で、以後、革命初期の国内戦を扱ったショーロホフの『静かなドン』(1928~40)や、農業集団化をテーマとした同じ作者の『開かれた処女地』(1932~60)、新世代のオストロフスキーの『鋼鉄は如何(いか)に鍛えられたか』(1932~34)などの大作が現れたが、作家同盟の官僚機構化と粛清の恐怖のもとで社会主義的リアリズムはドグマ化した。第二次世界大戦を経て、54年、スターリン批判(56年)を先取りしたエレンブルグの『雪どけ』が現れ、表題の「雪どけ」はソ連の自由化を表す世界的な普通名詞となる。しかし、58年のノーベル賞事件でのパステルナークの作家同盟除名に始まり、ソルジェニツィンの国外追放(74年)など、政治の介入はあとを断たず、国内の「ソビエト文学」と国外の「現代ロシア文学」が並存する状況が生まれたが、85年のゴルバチョフ政権による「グラスノスチ(情報公開)」とそれに続くソ連の崩壊は、プロレタリア文学そのものの存在基盤を消滅させたといえよう。
[大久保典夫]
一方、アメリカは第一次世界大戦後の疲弊から縁遠く、一貫して未曽有(みぞう)の繁栄を享受したが、1929年のニューヨーク株式取引所の「暗黒の金曜日」に始まる大恐慌以後、「ラジカル」(急進派)ということばが知識人の同意語となる。30年代に入ると、社会問題が大きくクローズアップされ、プロレタリア文学が盛んとなり、左翼イデオロギーが一時文学の世界を支配するようになる。一例をあげれば、32年の大統領選挙戦に、アメリカ共産党はウィリアム・Z・フォースターを候補として出馬させたが、彼を支持し後援する文学者の組織がたちまちつくられた。これに署名した作家は意外に幅の広い顔ぶれで、シャーウッド・アンダーソンやドス・パソスから、コールドウェルや黒人のラングストン・ヒューズその他、エドモンド・ウィルソン、マルカム・カウリー、ケネス・バークら当時の中堅批評家まで入っていたという。アルフレッド・ケージンは、『祖国の土の上で』と題した現代アメリカ文学史で当時を回顧して、「1600万の人間が失業し、100万人がストライキをしている国では、社会主義政権以外に救いの道があろうとは思われず、当時の僕にとって、社会主義者たることは、道義的な責務と感ぜられていた」と述懐している。しかし、当時のアメリカの左翼内部のイデオロギー的抗争と紛糾はプロレタリア文学を不毛とし、むしろ政治闘争から多少とも離れたところで時代の問題を凝視していた作家たちに優れたものが多い。
[大久保典夫]
イギリスでは、アメリカに端を発した世界恐慌が深刻な影響を与え始めた1932年に、若い詩人たちによる詩華集『新署名』が出版され、翌年、詩のほかに散文をも加えた『新しい国』が、前者と同じくマイケル・ロバーツ編で出る。寄稿者は中産階級出身の若者たちだが、後者のほうがはるかに強く左翼的で、これらはイギリスに、新しい傾向をもつ若い一群の作家が登場したことを意味していよう。30年代には、デー・ルイス編の左翼的論文集『鎖につながれた精神――社会主義と文化革命』が出版されたし、また、36年にスペイン内乱が勃発(ぼっぱつ)すると、共和政府を援助する種々の行動をおこし、オーデン、スペンダー、マクニースたちもスペインに赴き、オーウェルは直接戦闘に参加し、若い作家たちの多くがその生命を反ファシズムのために捧(ささ)げた。オーデンは、4行ずつ26節からなる『スペイン』(1937)で、スペインを救うことによって歴史を創(つく)ろうとする人々の未来への希望を歌い、デー・ルイスは、人民戦線側のトロール漁船ナバラ号の勇敢な戦いをたたえた戦争叙事詩『ナバラ号』(1938)を書く。
[大久保典夫]
フランスでは、日本にも大きな影響を与えた『地獄』の作者アンリ・バルビュスが、第一次世界大戦の体験を経てヒューマニストからさらにコミュニスムに帰依(きえ)し、『征服者』(1928)の行動的ニヒリスト、マルローが、スペイン戦争では共和派の飛行隊長として活躍しているのが目につく。第二次世界大戦が始まると、彼は正規軍の戦車隊に投じ、ドイツ軍の捕虜になるが脱出。のち、抵抗運動に参加してふたたび捕らえられるが、救出されてアルザス・ロレーヌ軍の旅団長に推され、ドゴール将軍と出会ったらしい。一方、アラゴン、エリュアール、ブルトンらは、1927年、政治革命とシュルレアリスムの主張する個人的・芸術的反抗との一致を求めて共産党に入党。ブルトンは、まもなく絶対的自由への希求から脱党するが、アラゴンは僚友エリュアールとともに、ファシズムの台頭と人民戦争時代を通してコミュニスムへの確信を強め、社会小説の連作『現実世界』(1934~44)や『レ・コミュニスト』(1949~51)を書いた。
[大久保典夫]
第一次世界大戦、ロシア革命後のヨーロッパの影響と国内の社会主義的、革命的な気運の高揚に伴って、急速に発展した階級的革命的文学をいう。宮嶋資夫(みやじますけお)の『坑夫』(1916)や宮地嘉六(かろく)の『放浪者富蔵(ほうろうしゃとみぞう)』(1920)、前田河広一郎(まえだこうひろいちろう)の『三等船客』(1921)などはプロレタリア文学の萌芽(ほうが)期を代表する作品である。大杉栄(さかえ)の『新しき世界の為(ため)の新しき芸術』(1917)はプロレタリア文学の方向をはっきり示し、先駆的な問題提起となった。
プロレタリア文学の主張が時代を動かす大きな力となったのは、1921年(大正10)小牧近江(こまきおうみ)らによって『種蒔(ま)く人』が創刊され、社会主義的な知識人・文学者が結集して、労働者階級の解放運動と結び付いた運動が展開されるようになってからである。この時期は理論が実作に先行し、宮嶋資夫『労働文学の主張』、平林初之輔(はつのすけ)『第四階級の文学』『文芸運動と労働運動』、青野季吉(すえきち)『階級闘争と芸術運動』などが相次いで現れた。その後、関東大震災(1923)に際して大杉栄、平沢計七(けいしち)らが殺されたのをはじめとして、激しい弾圧によって社会主義運動は壊滅的打撃を受けた。『種蒔く人』も廃刊となり、プロレタリア文学は一時まったく沈滞したが、『文芸戦線』創刊(1924)を契機に新たな高揚期を迎えた。この時期の代表的作家は葉山嘉樹(よしき)で、『海に生くる人々』をはじめ『淫売婦(いんばいふ)』『セメント樽(だる)の中の手紙』などは新鮮な内容と文体で、既成文壇にも衝撃を与えた。このほか黒島伝治(でんじ)、里村欣三(きんぞう)、平林たい子、林房雄(ふさお)などが相次いで現れ、創作の面でも大きな成果をあげた。この間、1925年12月に日本プロレタリア文芸連盟(プロ連)が結成され、『文芸戦線』はその機関誌となった。プロ連は翌年12月に改組されて日本プロレタリア芸術連盟(プロ芸)となった。
こうして、プロレタリア文学は組織的な文学運動として発展させられることになったが、それはまた、文学組織の分裂抗争の始まりでもあった。1927年(昭和2)プロ芸は分裂し、労農芸術家連盟(労芸)が成立、さらに労芸が分裂して前衛芸術連盟(前芸)が成立、プロ芸、労芸、前芸の三派鼎立(ていりつ)時代が出現した。しかし、28年3月、いわゆる三・一五の大弾圧の直後に、日本共産党を支持するプロ芸と前芸の合同が実現して、全日本無産者芸術連盟(ナップ)が結成され、機関誌『戦旗』を創刊した。その後ナップは全日本無産者芸術団体協議会に改組され、その構成団体の一つとして29年2月、日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)が発足した。こうして、『文芸戦線』を機関誌とし、政治的には社会民主主義的な労農派を支持する、青野季吉、前田河広一郎、葉山嘉樹、金子洋文(ようぶん)、平林たい子、里村欣三らの文戦派と、ナップ派との対立時代が始まった。この時期、『戦旗』を機関誌とするナップは蔵原惟人(くらはらこれひと)が理論面で指導的役割を果たし、『一九二八年三月十五日』『蟹工船(かにこうせん)』の小林多喜二(たきじ)、『太陽のない街』の徳永直(すなお)をはじめ、中野重治(しげはる)、片岡鉄兵(てっぺい)、村山知義(ともよし)、藤森成吉(せいきち)、立野信之(たてののぶゆき)、橋本英吉(えいきち)など、続々と新しい作家が登場してプロレタリア文学の全盛期を迎え、既成文壇を圧倒する勢いを示した。
しかし指導的メンバーが相次いで検挙され、機関誌もほとんど毎号発禁となるなど弾圧が激化し、1931年の満州事変以後はファッショ化、反動化の傾向が一段と強まった。これに対して蔵原惟人は『ナップ芸術家の任務』で共産主義芸術の確立を提唱し、ナップ芸術家の共産主義化を求めた。31年11月、ナップは日本プロレタリア文化連盟(コップ)に改組され、機関誌『プロレタリア文化』を創刊し、作家同盟の機関誌は『プロレタリア文学』となった。しかし、弾圧はいっそう激化し、指導的メンバーは根こそぎ検挙され、合法活動の可能性を奪われて、同盟員の動揺は強まった。小林多喜二、宮本顕治(けんじ)は地下に潜って運動を指導し、右翼的傾向の克服に努めたが、33年2月、小林が捕らえられて殺されるに及んで、動揺はいっそう強まり、その後、宮本も検挙されて、34年2月、作家同盟はついに解散した。その後、旧同盟員たちは、解散前後から刊行され始めた『文学評論』『文化集団』、さらには『文学界』などの同人雑誌によって、政治主義の呪縛(じゅばく)から解放された文学の創造を目ざし、「文芸復興」の旗を掲げたりしたが、結局、戦争の波に飲み込まれていった。戦後の民主主義文学運動は、この運動を受け継ぎ、発展させることを目ざしたものである。
[伊豆利彦]
『岡沢秀虎著『ソヴェート文学概論』(1947・東京堂)』▽『山田清三郎著『プロレタリア文学史』上下(1954・理論社)』▽『鹿地亘著『自伝的な文学史』(1959・三一書房)』▽『福原麟太郎・西川正身監修『英米文学史講座11 二十世紀Ⅱ』(1961・研究社出版)』▽『『日本プロレタリア文学大系』全8巻(1969・三一書房)』▽『平野謙著『文学運動の流れのなかから』(1969・筑摩書房)』▽『佐伯彰一著『アメリカ文学史』(1969・筑摩書房)』▽『栗原幸夫著『プロレタリア文学とその時代』(1971・平凡社)』▽『鈴木力衛著『フランス文学史』(1971・明治書院)』▽『小田切秀雄著『現代文学史 下』(1975・集英社)』▽『大久保典夫著『物語現代文学史 1920年代』(1984・創林社)』▽『『日本プロレタリア文学集』全41巻(1984~88・新日本出版社)』▽『伊豆利彦他著『座談によるプロレタリア文学案内』(1990・新日本出版社)』▽『湯地朝雄著『プロレタリア文学運動』(1991・晩声社)』
プロレタリアートの階級的自覚の高まりとともに,その思想,感情,生活の表現を目ざした文学潮流。
ドイツの労働者詩人ウェールト,《インターナショナル》の作詞者ポティエEugène Pottier(1816-87)らが源流と目される。20世紀初頭のロシア革命の中で,ブルジョア文学に対立するものとしてその概念が明確化され,1905年レーニンは《党の組織と党の文学》で,〈プロレタリアートと公然と結びついた文学〉の必要を強調した。実作的にはゴーリキーの戯曲《敵》(1906),長編《母》(1907)がその草分けとされ,14年にはゴーリキー編で労働者作家の作品集も出る。D.ベードヌイの風刺,扇動詩も読者を獲得した。
17年のロシア革命後,プロレタリア文学は組織的な文学運動の性格を強める。まず〈プロレトクリト〉がその母体となり,ここからは〈鍛冶場Kuznitsa〉派のゲラシモフMikhail P.Gerasimov(1889-1939),カジンVasilii V.Kazin(1898-1981)らのプロレタリア詩人群が生まれた。しかし,その観念的ロマン主義にあきたりないD.A.フールマノフ,F.V.グラトコフ,ベズイメンスキーAleksandr I.Bezymenskii(1898-1973)らの作家,詩人が,22年にプロレタリア文学グループ〈十月Oktyabl'〉に結集し,それがVAPP(ワツプ)(全ロシア・プロレタリア作家協会)に発展するあたりから,ソ連共産党の文芸政策と密接なかかわりをもつようになる。ロシア・プロレタリア文学は,Yu.N.リベジンスキーの《一週間》(1922),フールマノフの《チャパーエフ》(1923),A.S.セラフィモービチの《鉄の流れ》(1924),A.A.ファジェーエフの《壊滅》(1927),ベズイメンスキーの詩作など,しだいに実作面での成果をあげていくが,全体としては〈同伴者文学〉や,LEF(レフ)(正称は芸術左翼戦線Levyi front iskusstva)を中心にしたアバンギャルド文芸運動の創作水準に立ちおくれていた。24-25年には,L.D.トロツキー,A.K.ボロンスキーらをまきこんで,党の文芸政策が大きな論争の的になり,25年の党中央委員会決議では,創作分野での〈自由競争〉の原則が打ち出された。しかしその後も,VAPPを引きついだRAPP(ラツプ)(ロシア・プロレタリア作家協会)は,非プロレタリア系作家への政治主義的な攻撃をやめず,世界観偏重の創作方法をかかげたため,32年RAPPその他の文学団体を解散して,全ソビエト作家を単一の作家同盟に結集する方針が打ち出された。以後,〈プロレタリア文学〉ということばは,ソ連ではほとんど使われなくなる。
ロシアのプロレタリア文学運動は,国際的にも大きな影響を与えた。すでに第1次大戦時から,ドイツの〈表現主義〉文学運動,フランスのH.バルビュスやバイアン・クチュリエPaul Vaillant-Couturier(1892-1937)の創作が,広い意味でプロレタリア文学の先駆けとみなされ,アメリカのU.B.シンクレア,J.ロンドンの文学にも同じ傾向が看取されたが,それが自覚的な文学運動となるのは,やはり1917年のロシア革命後である。ドイツでは19年に〈プロレタリア文化同盟〉が結成され,E.トラー,B.ブレヒト,J.R.ベッヒャー,A.ゼーガースらがプロレタリア作家として活躍した。フランスでも同19年にバルビュスによって反戦と国際主義の立場に立つ〈クラルテClarté〉グループがつくられ,またL.アラゴンのようにシュルレアリスムからプロレタリア文学陣営に加わる詩人も出た。アメリカでは,ロシア革命のすぐれたルポルタージュを書いたジョン・リードを中心に〈ジョン・リード・グループ〉が結成され,ゴールドMichael Gold(1894-1967),J.ドス・パソスらが参加した。ほかにハンガリーのイレーシュIllés Béla(1895-1974),チェコスロバキアのフチークJuliu Fučik(1903-43)の存在も見落とせない。中国でも20年代後半からプロレタリア文学運動が興り,〈文学革命から革命文学へ〉の道が探究された。郭沫若(かくまつじやく),蔣光慈,茅盾(ぼうじゆん),郁達夫(いくたつぷ)らがその担い手である。30年には魯迅を中心に中国左翼作家聯盟が結成され,〈無産階級革命文学〉の旗をかかげて抗日戦時代まで活動をつづけた。
プロレタリア文学の国際的な組織としては,1920年に設けられたプロレトクリト国際ビューローがあり,25年にそれが革命文学国際ビューローに改組される。30年,22ヵ国のプロレタリア作家を集めてハリコフで開かれた同ビューローの第2回大会で,組織は革命作家国際連合Mezhdunarodnoe ob'edinenie revolyutsionnykh pisatelei(MORP(モルプ))と改称され,以後35年に解散となるまで,プロレタリア・革命文学の国際交流において大きな役割を果たした。
執筆者:江川 卓
日本のプロレタリア文学は,1920年代の初めからしだいに注目され,30年ころには文壇を圧する活気を示し,31年の満州事変以後は弾圧激化で解体に向かい,35年前後にその形としては消滅したもので,労働者や下積みの人々の生活とその声の素朴な表現から,共産党主導の革命運動の一翼としての文学活動という面までを包含する。1921年創刊の《種蒔く人》誌に結集した小牧近江らは,反軍国主義とその4年前に実現したロシア革命の擁護ということを掲げて,広く進歩的な思想家,作家たちに結集を訴え,明治・大正以来の社会主義文学(木下尚江,石川啄木,宮島資夫(すけお),平沢計七ら)とはちがう新しい運動として出発した。第1次大戦以来のデモクラシーの潮流と,労働者階級の増大,その自覚の成長,小作争議の頻発に見られる農民の新動向などに支えられて,まず進歩派の知識人の運動として始まったのであったが,《種蒔く人》の運動がしだいに進むに伴って,労働者階級と文学の関係,解放運動と文学の役割などについて理論的な手さぐりが進行し,平林初之輔,青野季吉を中心に革命文学の主張が行われるにいたった。しかし〈革命〉ということばは当時の検閲下では禁句であり,伏字にせざるをえなかったので,革命文学という代りにプロレタリア(労働者階級,無産者)の文学ということばをもち出し,22年ころから〈プロレタリア文学〉ということばが掲げられるにいたった。しかしはじめのうちは,このことばで労働者階級の貧しい生活,虐げられ,さいなまれている生活についての訴え(その最もすぐれた記録文学的表現が細井和喜蔵の《女工哀史》(1925))や自然発生的な反発・反逆などをも意味していた。
《種蒔く人》は23年の関東大震災でつぶれたが,翌年《文芸戦線》として再出発,やがて大正末~昭和初年の革命運動の高揚に伴ってプロレタリア文学運動も活気を呈した。一方で葉山嘉樹の長編《海に生くる人々》(1926)のような傑作が刊行されるとともに(この作は日本プロレタリア文学の最初の記念碑的作品として今なお生きている),他方では青野季吉の《自然生長と目的意識》(1926)や蔵原惟人の《プロレタリア・レアリズムへの道》(1928)などの論文を通して,革命と文学との関係が問いつめられるようになった。青野のそれはレーニンの《何をなすべきか》の文学運動への適用の試みであり,蔵原のはプロレタリア文学においてのリアリズムの主体に〈党(共産党)の観点〉をすえつけようとしたものである。革命運動内の政治党派のせめぎ合いも激しくなり,青野たちは山川均を中心とする労農派支持に進み,蔵原たちはこれと対立した共産党の側に立った。当時共産党は非合法下の最前衛の党派で,三・一五事件などの大弾圧のなかでそれに屈せず活動していたので,本来,美的にも徹底的なものを追求する文学者は,中野重治をはじめとして多くの部分が共産党支持に向かい,三・一五事件直後にその弾圧に抗するようにして結成された全日本無産者芸術連盟(のち〈連盟〉が〈協議会〉に変わるが,略称はともにナップ。中野たちの日本プロレタリア芸術連盟(略称,プロ芸)と蔵原たちの前衛芸術家同盟(略称,前芸)との合体を中心に成立。機関誌《戦旗》)は,革命の理想と情熱との徹底性をめざして制作と運動に当たった。そこから小林多喜二の《一九二八年三月十五日》(1928)や中野重治の詩《雨の降る品川駅》(1929)や三好十郎の戯曲《疵だらけのお秋》(1928)などの緊張した美をふくむ革命文学を生みだすとともに,小林をはじめ佐多稲子,徳永直のようなすぐれた新人を輩出させた。これに対して青野らの《文芸戦線》を中心とする労農芸術家連盟(略称,労芸。文戦派)はしだいに色あせて見えるようになり,やがては実力派だった平林たい子,黒島伝治,細田民樹(1892-1972)らが脱退し,その多くはナップに参加した。なお,明治・大正以来の文壇作家で大正末年から社会主義運動ないしプロレタリア文学運動に参加した作家として,藤森成吉,江口渙(きよし)(1887-1975),江馬修(ながし)(1889-1975),宮本百合子,細田民樹,細田源吉(1891-1974)らがおり,彼らも結局はすべてナップに参加した。ほかに〈同伴者作家〉として広津和郎,野上弥生子,山本有三,芹沢光治良らがいた。
プロレタリア文学は,明治・大正の私小説的な日本文学の体質を破りはじめ,思想と政治に生死する人間を描きはじめて,人民解放のために闘う新しい人間像,その思考や感覚の生き生きとした表現に多様な成功を示した。さきに名を掲げた諸作はその実例の一部となっている。それまでの個人主義文学に対する社会主義文学の成立である。しかし,その高揚は満州事変後の弾圧の激化によって,主要な作家たちの逮捕・投獄,一部の者の地下潜入とその後の逮捕,蔵原や宮本顕治ら文学運動の指導に当たった共産党中枢の政治主義的なごり押し,などによって文学運動は急激に退潮に向かい,主要な作家の大部分が転向した。共産党の指導に忠実だった小林多喜二は,特高警察の手で虐殺された。しかし宮本百合子や転向した作家のうちでも《村の家》(1935)などの作で立ち直ってきた中野重治たちは,満州事変の一応の終結後から日中戦争開始の37年までの3,4年に《文学評論》などの雑誌を中心にプロレタリア文学を再建した。中野の《汽車の缶焚き》(1937),宮本百合子の評論《冬を越す蕾》(1934),久保栄の戯曲《火山灰地》(1937-38)などが,より沈潜した形でのプロレタリア文学の新段階を示している。しかし日中戦争の開始は,プロレタリア文学という名称そのものを禁句にするまでの状態になり,日増しに激化する弾圧と取締りでしだいに手も足も出せなくなったが,それでも中野の《歌のわかれ》(1939),宮本の評論と短編小説,窪川鶴次郎の《現代文学論》(1939)など,プロレタリア文学系の芸術的に高度な作品は発展され,また平野謙,本多秋五,荒正人らその系統に属する若い文学者を生みだしてはいた。敗戦直後に蔵原,中野らはつぶされたプロレタリア文学運動の再建として民主主義文学運動をただちに発足させるが,それは政治主義の自己批判の不足などからジグザグの道をたどらざるをえなかった。
執筆者:小田切 秀雄
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大正末期頃からの,社会主義思想による文学運動および文学作品。芸術の階級性と歴史性を主張して,1921年(大正10)創刊の「種蒔く人」を先駆けに,革命党派の組織論・運動論に影響されながら展開した。24年に「文芸戦線」を創刊した日本プロレタリア文芸連盟を源流に,分裂と統合をくり返し,28年(昭和3)に結成されて機関誌「戦旗」によった全日本無産者芸術連盟(ナップ)派と,青野季吉・葉山嘉樹(よしき)らの「文芸戦線」派の対立のうちに推移。蔵原惟人(これひと)を理論的支柱とする小林多喜二・徳永直らナップ派が優勢を占めたが,弾圧と転向により,34年以降衰退した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
共産主義イデオロギーにもとづいて書かれた文学。ロシア革命後のソ連を中心に,1920~30年代には全世界でプロレタリア文学運動が活発に展開された。しかし,32年以後ソ連ではこの用語に代わって「社会主義文学」という言い方が採用され,戦後の日本などでも「民主主義文学」という用語が使われた。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…プロレタリア芸術運動団体〈ナップ〉の文学部が,1928年12月〈ナップ〉の改組に伴い,独立して日本プロレタリア作家同盟として結成されたもの。〈ナップ〉を構成する各領域のプロレタリア芸術団体のうちの中心的な部分となり,また,労農芸術家連盟(文芸戦線派)の社会民主主義的傾向に対立して共産主義文学運動の立場をかかげ,明治以来の絶対主義支配の圧倒的な重圧のなかで,ラディカルな文学闘争を展開してプロレタリア文学運動のヘゲモニーを握った。機関誌《戦旗》《ナップ》誌上を中心にはげしい論争を通して従来の文壇的な文学観念や理論を批判し去り,プロレタリア文学の創作方法理論,芸術運動理論を深化し,また革命文学のすぐれた作品と新しい個性をつぎつぎと提示し,これらによって日本の進歩的文学と大衆との結びつきをひろげるとともに,文壇をゆり動かして一時それにとって代わる勢いをさえ示した。…
※「プロレタリア文学」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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