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スネル(George Davis Snell)
すねる
George Davis Snell
(1903―1996)
アメリカの遺伝学者。マサチューセッツ州ブラッドフォードに生まれる。1926年ダートマス大学を卒業、ハーバード大学大学院で遺伝学を学び、1930年に博士号を取得した。ダートマス大学、ブラウン大学、テキサス大学で教職についたのち、1933年ワシントン大学の助教授に就任した。1935年にメーン州バーハーバーにあるジャクソン研究所に入所、1957年同研究所の主任研究員となり、1969年退職した。
テキサス大学時代にマウスを用いて哺乳(ほにゅう)動物で初めてX線による突然変異の誘発を実証した。その後ジャクソン研究所で遺伝の研究を続け、マウスの組織移植の実験を重ねた結果、免疫反応を調節する遺伝的要因として組織適合遺伝子(抗原)の存在をつきとめ、H‐2遺伝子(抗原)と名づけた。これには複数の遺伝子がかかわっていたため、のちに主要組織適合性複合体(MHC:major histocompatibility complex)とよばれた。その後、ドーセによりMHCがヒトにも存在することが確かめられ、さらにベナセラフによってその働きが解明された。1980年に「免疫を調整する、遺伝的に決定された細胞表面の構造に関する発見」により、ドーセ、ベナセラフとともにノーベル医学生理学賞を受賞した。
[編集部 2018年8月21日]
スネル(Willebrord Snell)
すねる
Willebrord Snell
(1591―1626)
オランダの天文学者、物理学者。ライデンに生まれる。1613年、父ルドルフRudolph Snell(1546―1613)の後を受けてライデン大学数学教授となる。1620年、光の屈折の法則(スネルの法則)を実験的に発見したが、論文としては公表せず、のちにデカルトが理論的に屈折の法則を論じたのを機会に、世に知られるようになった。また、地球の上の2点の距離測定に三角測量を初めて適用したことでも知られている。ライデンで没した。
[辻内順平]
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スネル
アメリカの免疫遺伝学者。マサチューセッツ州生れ。ダートマス大学卒業。1935年にジャクソン研究所のスタッフとなる。大部分の脊椎動物がもつ遺伝子領域において,マウスの組織適合抗原(MHC抗原)を発見し,〈免疫遺伝学の父〉と称された。免疫反応を調節する遺伝的に定められた細胞表面の構造についての基礎研究を行い,臓器移植と感染症に関する理解を深めた。1980年に組織適合抗原と免疫反応に対する細胞の相互関係の発見で,ジャン・ドーセとバルフ・ベナセラフとともにノーベル生理学・医学賞を受賞した。
スネル
オランダの天文学者で数学者。1616年ライデン大学教授。屈折の法則(スネルの法則)を発見。
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スネル
Snell, George Davis
[生]1903.12.19. マサチューセッツ,ブラッドフォード
[没]1996.6.6. メーン,バーハーバー
アメリカの遺伝学者。 1926年ダートマス大学卒業。 30年ハーバード大学で博士号を取得。 35年ジャクソン研究所に入所,主任研究員 (1957) ,69年退官。アメリカ学士院会員,アメリカ科学アカデミー会員。マウスの組織適合性の研究に取組み,H2と呼ばれる遺伝子複合体を同定し,これがすべての脊椎動物の遺伝形質に共通の主要組織適合複合体 MHCであることを明らかにした。 80年「免疫反応を調節する細胞表面の遺伝的構造に関する研究」で,J.ドーセ,B.ベナセラフとともにノーベル生理学・医学賞を受賞。
スネル
Snell, Bruno
[生]1896.6.18. ヒルデスハイム
[没]1986.10.31. ハンブルク
ドイツの言語学者,古典学者。 1931年ハンブルク大学教授。言語哲学,精神史の側面から古代ギリシアの文芸作品に哲学的解釈を加え,西洋精神史を新しく解釈しようとした。主著『精神の発見』 Die Entdeckung des Geistes (1946) ,『言語の構築』 Der Aufbau der Sprache (52) など。また 49年以後,膨大なギリシア語辞典を編纂。
スネル
Snell van Roijen, Willebrord
[生]1580. ライデン
[没]1626.10.30. ライデン
オランダの数学者,物理学者。父の跡を継いでライデン大学教授 (1613) となる。 1621年スネルの法則を確立,幾何光学およびのちの物理光学に重要な寄与をなした。また著書『バタビアのエラトステネス』 Eratosthenes Batavus (17) では,三角測量の方法を述べている。
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スネル
生年:生没年不詳
幕末維新期の外国商人,スイス領事館書記官。生地は兄ヘンリー・スネルと同じブレーメルハーフェンと考えられる。エドワルトは開港直後から横浜で種々の商売を営み,元治1(1864)年駐日スイス領事館に勤め,次いで同国総領事館の書記官に任じた。戊辰戦争時オランダ領事と自称,新潟港の勝楽寺を根拠地に兄と表裏一体となって軍艦の購入やサイゴンの外人部隊の招聘を奥羽越列藩同盟軍の要路に説き,武器弾薬の売却に奔走し,その総額は14万ドルを超えた。明治5(1872)年,新政府を相手に米沢,会津など旧藩の負債および戦時掠奪された物品の損害賠償の訴訟を起こし,翌年4万ドル受け取り帰国した。明治7年再び来日商業活動に従事した。<参考文献>外務省編『大日本外交文書』5,6巻
スネル
生年:生没年不詳
幕末期のプロシア公使館書記官,戊辰戦争時の奥羽越列藩同盟の軍事顧問。生地についてオランダ,バイエルンなどの諸説もあるが,ブレーメルハーフェンと推定される。文久3(1863)年ごろよりプロシア領事館の書記官に任じ,次いで同国公使館書記官を勤めたが,慶応3(1867)年12月大坂で辞職し横浜へ帰還。戊辰戦争中,和装帯刀して日本名平松武兵衛と称し,列藩同盟の要路に接近してしばしば軍議にも参画,新潟港の防備構築や実戦にも参加した。列藩同盟軍の武器購入の周旋方として特異な役割を演じた。明治2(1869)年日本人を伴って渡米,カリフォルニアにワカマツコロニーを建設したが失敗に終わった。<参考文献>田中正弘「米沢藩と平松武兵衛」(『軍事史学』12巻2号)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
スネル Schnell, Henry
?-? オランダの貿易商。
E.スネルの兄。プロイセン公使館書記官ののち,陸奥(むつ)会津(あいづ)藩(福島県)軍事顧問となり,城下に屋敷をかまえた。戊辰(ぼしん)戦争の際には,新潟で弟とともに奥羽越列藩同盟諸藩の武器購入を斡旋(あっせん)した。明治2年(1869)会津の移民十数名をつれてカリフォルニアにわたる。日本名は平松武兵衛。
スネル Schnell, Edward
?-? オランダの貿易商。
H.スネルの弟。横浜で貿易業をいとなむ。戊辰(ぼしん)戦争中の慶応4年(1868)新潟におもむき,奥羽越列藩同盟の諸藩におおくの武器弾薬などをうりこんだ。新潟陥落後,物資は政府軍に没収されたが,明治6年損害の賠償金をうけとった。
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