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〈バレエ・リュッス〉の主宰者。ロシアの貴族に生まれる。大学教育のためにペテルブルグに行き,進歩的な文人や画家,音楽家のグループに入る。たちまちその主導的人物となり,1899年美術雑誌《芸術世界》を創刊。同時期に帝室劇場管理部に地位を得,《帝室劇場年鑑》の編集にたずさわり,バレエ《シルビア》の上演を任されるが,後者は因襲的な周囲との摩擦によって中止となり,まもなく免職となった。つづいてロシア芸術を西欧に紹介することに専念し,1906年絵画展,07年音楽会をパリで開催,翌08年にはシャリアピンを主役として歌劇《ボリス・ゴドゥノフ》を上演して大成功を収める。このときパリの興行主のすすめでバレエ公演を企画し,09年帝室バレエの俊秀を集めて〈バレエ・リュッス〉の旗揚公演を実現した。以後20年間,その死に至るまでこのバレエ団はヨーロッパを本拠として活躍し,つねに一流の美術家,作曲家,文学者の協力を得た斬新な作品を発表しつづけ,バレエ界はいうに及ばず,20世紀初期のあらゆる芸術運動の先頭に立った。またディアギレフは人の才能を見抜くことに天賦の才を持ち,企画したバレエ作品に適切な作曲家,美術家を選んで狂いがなかった。舞踊については詳しい知識の持主ではなかったが,創作に無経験のニジンスキー,マシン,リファールに芸術全般の教育を授け,一流の振付家に育てた。政府の補助金を欠いてはほとんど不可能に近い大バレエ団の維持を寄付のみで賄うことを得たのは,その人徳の高さの証左でもあろう。
執筆者:薄井 憲二
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ロシアのバレエ団主宰者。3月19日、ノブゴロドの貴族の家に生まれる。1898年友人と『芸術の世界』を創刊(~1904)。ヨーロッパ各地に、美術のみならず音楽やバレエなどロシア芸術の紹介に努めた。1909年、ディアギレフ・ロシア・バレエ団を組織して、パリで旗揚げし、以降20年間その団長として活躍、ロンドン、パリ、モンテカルロ、ニューヨークなどで次々と公演を行った。ロシアの野性を象徴するニジンスキーの踊り、ストラビンスキーの音楽など、エキゾティシズムとリリシズムを兼ね備えたロシア・バレエはヨーロッパの社交界、芸術界を巻き込み、時代をリードした。世界の舞踊界に大きな影響を与えた彼は、29年8月19日にベネチアで死去した。
ロシア・バレエ団に関係した美術家にバクスト、ブノア、ピカソ、マチス、ゴンチャロフ、エルンスト、音楽家にストラビンスキー、サティ、プロコフィエフ、プーランク、ミヨー、オーリック、舞踊家にニジンスキー、パブロワ、カルサビナ、マシーン、バランチンなど数多い。
[市川 雅]
『R・バックル著、鈴木晶訳『ディアギレフ――ロシア・バレエ団とその時代』全2冊(1978、83・リブロポート)』
…また,この雑誌に参加した知識人,画家グループの名称。ディアギレフとベヌアを中心に編集され,D.S.メレシコフスキーらの文芸評論を掲載し,バクスト,セローフ,ソモフKonstantin Andreevich Somov(1869‐1939),ドブジンスキーMstislav Valerianovich Dobuzhinskii(1875‐1957)らの挿画で飾られた。西欧の同時代の芸術に刺激をうけ,反アカデミー,反リアリズムを指向し,1904年まで全12号を刊行。…
…以後リムスキー・コルサコフ,ドビュッシー,ワーグナー,ベートーベンの音楽をモデルにしながら,《交響曲変ホ長調》を作曲し,作品番号1をこの作品につけた。08年に発表した管弦楽曲の《スケルツォ・ファンタスティック》と《花火》の2曲が,ディアギレフに認められ,この天才的な興行師から,バレエ・リュッスのパリ公演のためのバレエ音楽の作曲を委嘱された。《火の鳥》《ペトルーシカ》《春の祭典》が,バレエ・リュッスによってパリで上演され,いずれもセンセーショナルな話題を集め,ロシアの新進気鋭の作曲家の名前は,一躍ヨーロッパの音楽界に広まった。…
…【引地 正俊】
[音楽]
上記の物語に基づく音楽作品では,M.ラベルのバレエ音楽《ダフニスとクロエDaphnis et Chloé》(1912,1幕3場)が有名である。ディアギレフのバレエ・リュッスの委嘱,フォーキンの台本・振付で1912年初演。しかしバレエとしては成功せず,作曲者自身の編曲による第1組曲(1911,《夜想曲》《間奏曲》《戦いの踊り》),第2組曲(1913,《夜明け》《無言劇》《全員の踊り》)として知られる。…
…1898年ペテルブルグ帝室舞踊学校に入学するが,入学試験のときから試験官を驚かすほどの才能を示した。1907年卒業後,ディアギレフに見いだされ,09‐13年バレエ・リュッスに参加,古典舞踊の基礎の上に深い詩情をたたえて表現した《レ・シルフィード》(1909),その異国的風貌とほとばしり出るすさまじい活力を生かした《シェーラザード》(1910),バレエの演劇性に対する鋭い洞察を示した《ペトルーシカ》(1911)などにより,天才舞踊家の名をほしいままにした。《ばらの精》(1911)で見せた高い跳躍は空前といわれ,多くの伝説を生んだ。…
…パリにおけるドリーブの《コッペリア》(1870)と《シルビア》(1876),モスクワにおけるチャイコフスキーの《白鳥の湖》(1876),ペテルブルグにおける同じ作曲家の《眠れる森の美女》(1890)と《くるみ割り人形》(1892)の成功は,この通念を打開し20世紀のバレエ音楽への道を開いた。 1910年代から20年代にかけて,ディアギレフの主宰する〈バレエ・リュッス〉のために,現代音楽の新しいイズムをもったバレエ音楽が相次いで創造される。ストラビンスキーの《火の鳥》(1910)と《ペトルーシカ》(1911)と《春の祭典》(1913),J.M.ラベルの《ダフニスとクロエ》(1912),ドビュッシーの《遊戯》(1912)などである。…
…ディアギレフの病死によって解散(1929)したバレエ・リュッスの後を継いで組織されたフランスのバレエ団。コサックの大佐ド・バジールColonel de Basil(1888‐1951)とモンテ・カルロ歌劇場支配人ブルムRené Blum(1878‐1942)によって1932年モンテ・カルロにおいて第1回公演が行われた。…
…クラシック・バレエでは女性の主役が中心だったが,モダン・バレエではそれが対等に行われ,男性を中心にしたものもつくられた。1909年以降のディアギレフのバレエ・リュッスにおいて顕著にその傾向があらわれ,その先鞭をつけたのはM.フォーキンやV.ニジンスキーの作品である。バレエ・リュッス後期に登場したG.バランチンやS.リファールはその後アメリカやフランスで新しい思考によるバレエをつくった。…
※「ディアギレフ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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