フランスの近代地理学の建設者。エコール・ノルマル・シュペリウールで歴史と地理を学び,地中海周辺を広く旅行しスエズ運河の開通(1869)を目にして,A.vonフンボルトやK.リッターの地理学に親しんだ。ナンシー大学で地理学を担当する(1872)ためドイツを訪ね,O.ペシェル,F.vonリヒトホーフェンに接し,のちにF.ラッツェルにも関心を向け,彼らを吸収・批判して独自の地理学を確立する。1877年以後は母校の教授として活躍した。98年パリ大学文学部教授,1914年同名誉教授。1891年の《地理学年報》の創刊以後も《地理学文献年報》や《世界地誌》の刊行・企画など,フランス地理学派の名声を高めるのに献身する。地理学の独立を獲得するために地質学や地形学などの野外研究を訓練に取り入れ,地図帳《歴史と地理》(1894)の序文で地域研究の基礎を確立し,次いで《フランス地理概観》(1903)を執筆,生き生きとした地誌記述の模範を示し,地誌を学位論文とし弟子を励ました。晩年の《東部フランス》(1917)には,工業と大都市が地域を形成変貌させるという動的観点を打ち出す。彼の思想は,女婿E.deマルトンヌ編の遺稿《人文地理学原理》(1922)に集約されている。〈地的統一〉に基づく〈地域的生活〉が〈生活様式〉,大きくは〈文明〉という社会の型を形成し,接触と交流により進化するという。人間の環境への働きかけを重視するヒューマニスティックな〈環境可能論〉の立場が明らかである。生態学的・歴史学的観点を併せもつ彼の思想は,計量化以後の地理学に多くの示唆を与える。
執筆者:松田 信
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… ラッツェルの人文地理学は,フランス,イギリス,アメリカ合衆国など,ひいては日本にも強い影響を与えた。フランスのP.ビダル・ド・ラ・ブラーシュは,《人文地理学原理》等の著作において,さらに歴史的要因や社会的中間項の分析,生態学的考察,該博な知識に基づく比較研究によって,ラッツェルの決定論的残滓を拭い去り,人文地理学を人文・社会科学の一員として発展させる基礎を築いた。 その後の人文地理学は,性急な環境論的解釈の誤りを防ぐためにも,より実証的・客観的調査研究に力を注ぎ,統計の発達による社会経済現象の分布論的解析,類型的地域区分に基づく比較研究,フィールドワークによる地域現象,文化景観の形態学的・生態学的考察により,科学的地誌とくに経済地理の成果を増大させた。…
※「ビダルドラブラーシュ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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