フランスのスコラ学者。生没年不詳。1300年ころピカルディー地方の小さな町ベチューンに生まれ,パリ大学で学んだ。その後1320年ころからその学芸学部の教師となり,28年と40年の2度にわたって学長に選ばれた。生涯を通して学芸学部で活躍し,アリストテレスのほとんどすべての著作について〈注解〉や〈問題集〉を著したが,神学にはほとんど関心を示すことはなかった。オッカムの提唱した唯名論の立場を批判的に継承・発展させ,主として自然哲学の分野で優れた研究を行うとともに,ニコル・オレーム,ザクセンのアルベルトのような逸材を育成して,パリ学派と呼ばれる学統の創始者となった。彼の科学的達成としてまず第1に挙げられるのは,アリストテレスの投射運動論をまっこうから批判して,動者から動体に直接こめられるインペトゥスimpetus(勢い)という力学的概念を新たに導入したことである。そしてこの概念を巧みに適用することによって,投射運動のみならず,落体の加速運動,物体の回転運動などのさまざまな運動現象を統一的見地から説明することができた。今日この理論は一般にインペトゥス理論として知られている。そのほか,地球の日周運動の可能性について中世ヨーロッパで初めて本格的に検討したことや,造山作用のメカニズムについて独創的な見解を展開したことなども見逃せない。これらの思索は中世後期からルネサンス時代までさまざまな影響を及ぼしたが,なかでもインペトゥス理論はひろく受けいれられ,近代的な力学思想形成の原動力として大きな役割を果たすことになった。なお,〈ビュリダンの驢馬(ろば)〉--同質同量の2束の乾草の真ん中に置かれた驢馬は,双方からの刺激が等しいため一方を選べず餓死する--の話はよく知られているが,彼の著作にはない。
執筆者:横山 雅彦
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フランス中世の哲学者、科学者。パ・ド・カレー県ベチュンの生まれ。パリ大学で学び、やがてその教授として成功し、学長にもなった。オッカムの影響を受けたと思われる唯名論的主張もあるが、基本的にはパリ大学の論理学の流れにたって、これを発展させ「私はいま嘘(うそ)をついている」といった自己言及のパラドックスの分析を行い、また演繹(えんえき)法則の公理論的導出を初めて試みた。自然学に関してはアリストテレスの見解に反対して「突進力」impetusの理論を提唱した。これは近代の慣性法則などに先だつもので、投げ出された物体が飛び続けるのは、物体に、速度と物体の量に比例した強さの突進力が与えられたためであり、この力は空気抵抗と物体の重さによって徐々に減少するとされる。
[清水哲郎]
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…それは1277年のパリの司教タンピエÉtienne Tempierの異端断罪に端を発し,アリストテレスの学説が批判されると,イギリスではブラドワディーンを中心にダンブルトンのジョンJohn of DumbletonやスワインズヘッドRichard Swinesheadらが,アリストテレス運動論の数学的難点を指摘し,この克服のために新たな数学的定式化を試み,そのなかには,ガリレイの〈落体の法則〉を先取りするものも現れた。大陸ではビュリダンを中心に,ニコル・オレーム,ザクセンのアルベルト,インヘンのマルシリウスMarsiliusらが,アリストテレス運動論の自然学的難点に注目し,あらためて〈インペトゥス理論〉を発展させ,〈運動量〉の概念,〈慣性〉の法則,〈等加速運動〉の幾何学的定式化などに向かった。こうした中世末期の運動論は,フランスの科学史家デュエムらにより〈近代科学〉のはじまりであると主張され,学界の注目を集めた。…
※「ビュリダン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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