日本大百科全書(ニッポニカ) 「フィジー」の意味・わかりやすい解説
フィジー
ふぃじー
Republic of Fiji 英語
Matanitu ko Viti フィジー語
南太平洋のメラネシア東部に位置する島嶼(とうしょ)国家。元イギリス連邦加盟(1987年離脱。1997年に再加盟の後、2009年に資格停止)の国。2009年に憲法が停止され、正式名称がフィジー諸島共和国Republic of the Fiji Islandsからフィジー共和国Republic of Fijiに変更されている。ビチ・レブ島(面積1万0389平方キロメートル)、バヌア・レブ島(5534平方キロメートル)の二大島をはじめとする、332の島々が集まってフィジー諸島を構成し、同諸島にロツーマ島を加えて国土を形成している。このうち前記の2島とタベウニ島(430平方キロメートル)、カンダブKadavu島(407平方キロメートル)やロマイビチLomaiviti諸島(12島)、モアラMoala諸島(行政上は後述のラウLau諸島に加えられる。3島)、西方に並ぶヤサワ諸島(西部諸島ともいう。約20島)、ロツーマ島などは火山島であるが、ラウ諸島(約60島)はサンゴ礁からなり、半数が無人島である。陸地面積の合計は1万8274平方キロメートル、人口83万(2006年推計)、85万4000(2010年推計)。首都はビチ・レブ島南東部のスバ。国際空港は、同島西部のナンディNadiにあり、ホノルル(ハワイ)、シドニー(オーストラリア)、オークランド(ニュージーランド)をはじめ、ナウル、ヌーメア(ニュー・カレドニア)、アピア(サモア独立国)、パゴパゴ(アメリカ領サモア)、ヌクアロファ(トンガ)などとの定期航空路線がある。スバ港には豪華客船が寄港し、海空路の要衝としてのフィジーは「南太平洋の十字路」の名にふさわしい。
[大島襄二・山本真鳥・丹羽典生]
歴史
フィジー諸島は1643年、オランダ人タスマンがヨーロッパ人としては初めて到達したが、18世紀末には諸島は複数の王国に分かれていたとされる。1874年にはイギリス領となり、行政の中心をオバラウ島レブカに置いた。当初ソロモン諸島から、のちにインドから多量の労働力を入れた。後者のインド人労働者は主としてサトウキビ農園を開発した。1882年、首都をスバに移した。1970年10月10日独立、イギリス連邦の一員となり、同時に国連に加盟した。独立以降、1987年、2000年、2006年に政変が起きている。
[大島襄二・山本真鳥・丹羽典生]
政治
先住民であるフィジー人と、サトウキビ・プランテーション労働者として移民してきたインド系フィジー人とが総人口をほぼ二分しているにもかかわらず、独立以来フィジーは、民主主義が比較的よく守られ、人種間の調和がとれている社会のモデルとされてきた。インド系の資本家がビジネスで活躍する一方、政治は先住系のそれも主として首長層が掌握してきた。しかし実際には、長期政権を築き、太平洋諸島のなかでもリーダー的な立場にいた独立当時の首相ラトゥ・カミセセ・マラは、対立党の分裂などを通じて辛くも先住系フィジー人主導の政権を維持してきたのであった。
ところが、1985年に労働党(FLP=Fiji Labour Party)が発足し、インド系の政治家を多く含む国民連合党(NFP=National Federation Party)との連立の動きが生じ、1987年の選挙で両党が政権の座に着くと、1か月後には先住系軍人によるクーデターが起き、インド系政治家を多く含む連立内閣は瓦解(がかい)した。その後、先住系政治家による臨時政府を経て、イギリス連邦からも離脱し、1990年には新憲法が制定された。この憲法では、選挙は先住系に有利な人種割当て制となり、多くの議席が首長会議により任命され、首相は先住系であるべきことが明記され、事実上の先住系支配が確実となった。しかし、この体制下での選挙が行われた後、1997年にはさらに新しい憲法へと改定され、人種割当て制度はある程度温存されたものの、割当てによらない議席が多数設けられた。また、人種差別の禁止や、言論・集会の自由、司法の独立が明記されることとなった。
先住系軍人のクーデターから先住系支配の制度確立の試みを経て、結局フィジー社会が学んだのが多民族融和への道であったことは興味深い。ところが、その後の経緯が示す通り、クーデターの結果生み出された社会の分断状態から、フィジーはいまに至るも回復できていない。2000年には、インド系の首相が主導する内閣に批判的な武装市民集団による国会議員監禁事件が起き、政権は崩壊した。2006年には先住系中心に構成されている内閣の方針に批判的な先住系軍人によってクーデターが起こされている。
元首は大統領(任期5年)が務めるが、行政権は内閣にあり実権は首相が握る。議会は二院制で、上院32議席、下院71議席。任期はともに5年だが、2006年のクーデター以後は停止状態にある。2014年に行われる予定の総選挙によって政治的秩序が回復されるとされているが、まだ予断を許さない状況である。たび重なる政変の動向が示しているように、フィジー社会はもはや単純に人種により分断されているのではなく、階級や地域差などさまざまな要因による利害対立を抱えた複合社会へと変貌(へんぼう)している。
[山本真鳥・丹羽典生]
経済・産業
太平洋にある国のなかでも比較的大国であるフィジーの経済活動は多岐にわたっており、近年では製造業やさまざまな新しい商品作物の栽培が試みられているが、大きな柱は観光とサトウキビ栽培である。観光業を含むサービス産業は国民総生産(GNP)の60%を占め、サトウキビ栽培は農業労働人口の25%を吸収し、かつ国内総生産(GDP)の7%を産み出している。ただし、サトウキビ産業は世界的な構造不況産業で、産業の再生がはかどっていないことなどから、一時はフィジー最大の産業であったものの、かつての勢いはない。また近年、とくに1987年のクーデター後の観光業の発展は海外からの投資にかなりの部分を負っているため、資金の回収として海外に流れていく額も大きいといわれている。
同じくクーデター後に近年発展してきた製造業のなかでは、衣類の生産が著しく伸びて、総輸出額の20%近くを占めるようになってきている。
サトウキビはビチ・レブ島北方のラウトカ、ララワイおよびペナンとバヌア・レブ島北岸のランバサで精糖され、年間16万7000トン(2010)の砂糖の生産がある。他の商品作物としてはコプラ(ココヤシの果実の胚乳を乾燥させたもの)、フィジーの新しい輸出作物となったショウガ、そしてパイナップル、バナナ、マンゴー、パパイヤ、オレンジなど、熱帯特産の果物が豊富である。水産業ではマグロ、カツオ、ナマコ、真珠母貝、フカのひれなどの漁獲がある。日本、韓国、台湾の漁船も操業しており、ビチ・レブ島の東にあるオバラウ島のレブカはその基地である。また、鉱業も営まれており、なかでも金は年間およそ3万5000オンス(約992.25キログラム。2009)の生産高がある。輸出額は11億2400万ドル(アメリカ・ドル)、おもな輸出品は衣類、砂糖、金、魚類などで、おもな輸出相手国はアメリカ、オーストラリア、日本。輸入額は16億0900万ドル(アメリカ・ドル)、おもな輸入品目は機械、輸送機器、工業製品、食料品などで、おもな輸入相手国はシンガポール、オーストラリア、ニュージーランドとなっている(2010)。通貨はフィジー・ドル(FJD)。
[山本真鳥・丹羽典生]
社会・文化
多民族国家を形成しており、全人口の約57%をフィジー系、約38%をインド系、残りを白人系、中国系などが占める。長頭で、褐色の皮膚、波状毛をもつ先住系は、通常メラネシア人種に分類されるが、東方のトンガ、サモアなどのポリネシアと境を接していて古くより交流があったためか、より西方のメラネシア人に比べて皮膚の色もやや薄い人々もいる。とくに東のラウ諸島ではポリネシア的形質がより強く現れている。文化的にもカバ(コショウ科の植物カバの根を砕き、水に浸してつくる飲料)飲用の習慣をもつが、その飲用のスタイルや、首長システムを有する点など、ポリネシア的側面ももつ。
広く使われる言語はオーストロネシア語族のフィジー語であるが、方言が存在し、また文化も地方ごとの特徴をもっている。公用語は英語、フィジー語、ヒンディー語である。土地は全土の約8割が先住系フィジー人の父系親族集団による共同所有となっていて、彼らのほとんどはキリスト教徒である。一方、人口の約半数弱を占めるインド系フィジー人の多くは、19世紀末から20世紀初頭にかけてコルカタ(カルカッタ)やチェンナイ(マドラス)の港からサトウキビ農園の年季契約労働者として来島した人々の子孫である。今日もその多くがこの国の主産業であるサトウキビ栽培に従事し、インド文化の伝統に基づいた独自のコミュニティを形成している。彼らの7割がヒンドゥー教徒、3割がイスラム教徒である。二大民族のほかに、ポリネシア系のロツーマ人、移民の子孫である華人(中国系住民)、ソロモン諸島民などがいる。
教育についてみてみると、初等教育や、それには劣るものの中等教育もほぼ普及しており、識字率も9割に達する。それ以降の教育では、四つの教員養成学校のほかに三つの大学がある。なかでも南太平洋大学は、太平洋地域を拠点とする大学としてフィジー以外の域内諸国からの学生が多く在籍している。このように教育制度はある程度整備されているとはいえ、地域や人種間の教育格差は存在しており、しばしば政治的問題とされている。
[山本真鳥・丹羽典生]
日本との関係
太平洋戦争以前には、フィジーへの日本人移民の導入が試みられていた。しかし病気(脚気(かっけ))が原因で定着せず、太平洋戦争の勃発(ぼっぱつ)によって中断された。日本軍とフィジー軍は太平洋上で戦闘状態になったことがあったものの、フィジーへの上陸戦は行われなかった。太平洋戦争に備えた防塁等防御構築物の跡は残されている。1970年(昭和45)の独立を日本も承認し、1979年にはスバに在フィジー日本大使館が開設された。在日本フィジー大使館は1981年東京に開設され、1990年(平成2)には大阪に、2012年には横浜にそれぞれ名誉領事も任命している。年間1万2000人(2010)の日本人観光客がフィジーに足を運んでいる。フィジーはラグビーが盛んで、日本で活躍するラグビー選手もいる。
[丹羽典生]