ブラマンテ(読み)ぶらまんて(英語表記)Donato Bramante

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ブラマンテ」の意味・わかりやすい解説

ブラマンテ
ぶらまんて
Donato Bramante
(1444ころ―1514)

盛期ルネサンスの代表的イタリアの建築家、画家。本名はDonato d'Angelo Lazzari。ウルビーノ近郊に生まれる。ウルビーノでマンテーニャ、ピエロ・デッラ・フランチェスカらの影響下に修業時代を過ごしたと思われる。1481年までにミラノ宮廷に仕えるところとなり、現在知られる最初の建築作品は同地のサンタ・マリア・プレッソ・サン・サティロ教会(1482起工)である。これは9世紀の建築の大改造であったが、ここでブラマンテは、敷地の制約から奥行のとれない祭壇部を遠近法を駆使しただまし絵的構成で巧みに処理し、細部ではアルベルティブルネレスキをよく学んでいたことを示している。また、ミラノにいたレオナルド・ダ・ビンチの影響に起因するといわれる集中式平面への志向の萌芽(ほうが)もここにみられ、これはブラマンテ終生のテーマとなる。ほかにミラノでは、ゴシック的なこの地方の様式にも深い理解を示すサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会交差部より東の部分(1485~97)などを手がけた。

 1499年ローマに移り、サンタ・マリア・デッラ・パーチェ教会の回廊(1500)で簡素な二層の列柱に絶妙の比例を与え、さらにサン・ピエトロ・イン・モントリオ教会中庭の円形小堂(テンピエツト)(1502以降)では、ローマ時代の建築から借用した理念を独自に拡張し、調和ある理想的空間を創出する。教皇ユリウス2世が即位するとその主任建築家となり、巨大な回廊に古代別荘(ビラ)の再生をねらったバチカンの中庭ベルベデーレ、サンタ・マリア・デル・ポポロ教会回廊(1505~09)、ラファエッロが一時住んだパラッツォ・カプリーニ(1514)などでさらに力強い古典的表現に新境地を開いていった。そしてサン・ピエトロ大聖堂の計画に集中式建築の大成を計ったが、工事中に教皇が没して中断され、すぐブラマンテ自身も世を去った。しかし「古代をよみがえらせた人」(セルリオ)とたたえられたブラマンテの作品は、古典主義建築の頂点にたつものとして後世に強い影響を与え続けた。

[末永 航]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ブラマンテ」の意味・わかりやすい解説

ブラマンテ
Bramante, Donato

[生]1444. モンテ・アスドルバルド
[没]1514.4.11. ローマ
イタリア盛期ルネサンスを代表する建築家。本名 Donato d'Angelo Lazzari。ウルビノで基礎修業を積んだのち,1477~99年に北イタリア,ロンバルディア地方で活動した。初めベルガモ,次いでミラノに行き,サン・サティロ聖堂を設計 (1479以後) 。その聖器室の八角形平面は,彼が終生追究する集中式聖堂の主題の最初の現れとして注目される。同地のサンタ・マリア・デレ・グラツィエ聖堂の内陣部 (1492~97) も彼の手になるが,ここでも集中式聖堂への強い傾倒が認められる。ミラノでは,イル・モーロの居城カステロ・スフォルツェスコの改築や室内装飾にも従事し,パビア大聖堂の建立にも関与している。 1499年にローマに出て,サンタ・マリア・デラ・パーチェ修道院の回廊を設計 (1504,あるいはそれ以後という説もある) 。その中庭には,2層の列柱構成に細心の配慮が凝らされた。サン・ピエトロ・イン・モントーリオ聖堂中庭のテンピエット (1502) では,古代の円形神殿に範をとりながらも,新しい建築理念に適合させて,端正な比例と調和ある空間構成に上昇感を生み出している。その後,教皇ユリウス2世に重用され,バチカン宮の諸建築やサン・ピエトロ大聖堂の再建工事 (1506起工) に取り組んだ。大聖堂の改築においては,ギリシア十字形を採用して集中的な幾何学形態を強く打ち出し,その典型の実現をはかろうとしたが,業なかばにして没した。彼の手になるバチカン宮のベルベデーレの中庭は,16世紀におけるイタリア式庭園の展開を予想させるものである。

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