フランスの作家。80余編の連作小説『驚くべき旅行記』は、地球上のあらゆる土地、地底、海底の世界を探り、果ては月世界探検に至る空想冒険物語集。科学的夢想にあふれた作品も多く、SFの父ともいわれる。第二次世界大戦後、フランスではベルヌの作品が再評価されつつある。彼は1828年2月8日、弁護士の長男としてナントのフェイドー島に生まれる。ロアール川の港に往来する船を眺めながら育つうち、異国への憧憬(しょうけい)を燃やし、12歳のとき密航を企て連れ戻される。そのとき、「これからは空想のなかでしか旅をしないぞ」と叫んだことが伝説のように伝えられている。47年、法律を学ぶためパリに出るが、作家への夢絶ちがたく、劇場秘書を勤めるかたわら劇作を試みる。57年、オノリーヌと結婚後は株式取引所所員。62年、偉大な編集者エッツェルJules Hetzel(1814―86)との劇的出会いから、冒険作家としての道を歩き始める。のちに『二週間の風船旅行』となる元の原稿を読んだエッツェルは、これを企画中の『教育娯楽マガジン』に連載すれば新時代の読者を魅了すること間違いなしと確信した。
[私市保彦]
少年時代から『ロビンソン・クルーソー』、『スイスのロビンソン』、ポーの幻想小説、クーパーの冒険小説、スコットの歴史小説などを耽読(たんどく)したベルヌは、エッツェルの示唆を受け、新しい冒険小説のジャンルを創造。地理学、地質学、物理学、天文学などあらゆる知識を縦横に駆使し、科学と詩の想像世界を繰り広げ、エッツェルの期待にみごとこたえた。その筆力は恐るべきものがあり、想像力は無限の広がりをみせる。暗黒大陸アフリカを旅する『五週間の風船旅行』(1863)、『地球から月へ』(1865)、『月世界探検』(1870)、北極に至る狂気の冒険行『ハトラス船長』(1866)、ぼろぼろの暗号文の誤読・解読につれ、南アメリカ、オーストラリア、ニュージーランドを転々と探検する『グラント船長の子供たち』(1867~68)、『海底二万里』(1869~70)、『八十日間世界一周』(1873)、無人島物語の『神秘の島』(1874~75)や『二年間の休暇』(1888。邦訳名『十五少年漂流記』)などを続々発表する。一方『ミッシェル・ストロゴフ』(1876)などの歴史的・政治的背景を題材にした冒険小説も創作した。また、潜水艦、飛行船、ロケット、テレビなど未来科学技術の想定は、今日の技術世界を正確に予想していて興味深い。
人気作家となったベルヌは、自家用ヨット「サン・ミシェル号」を駆って海上生活を楽しむかたわら、1870年からアミアンに在住、同市市会議員を務めたのち、1905年3月24日、その地で栄光に包まれて没した。晩年の作『国旗に向かって』(1896。邦訳名『悪魔の発明』)、『世界の支配者』(1904)は科学の破壊力に注目しペシミズムが濃い。人類滅亡と再生の寓話(ぐうわ)をつづる『永遠のアダム』(1910)は息子ミシェルの代作ともいわれる。
[私市保彦]
『『ヴェルヌ全集』全24巻(1967~69・集英社)』▽『私市保彦著『ネモ船長と青ひげ』(1978・晶文社)』
フランスの小説家。ロアール河口の港町ナントの代訴人の家庭に生まれた。父の希望に沿い,パリ大学法学部に学び,22歳で弁護士資格を取得する。しかし文学への思いを断ち切れず,劇場の職員や株式の仲買人などをしながら,作家の道を目ざす。戯曲やオペレッタの台本にも手を染めたが,科学的発見や発明への好奇心が強く,また多くの探検家や地理学者とも知り合い,1851年ころにはすでに〈科学のロマン〉の壮大な構想を抱いていた。62年,卓越した出版人エッツェルとの運命的な出会いにより,《気球に乗って5週間》が日の目をみ,大評判をとる。以後40年余りにわたって書き続けられる《既知および未知の世界への驚異の旅》シリーズの第1作である。《地底旅行》(1864),《地球から月へ》(1865),《ハトラス船長の探検》(1866),《グラント船長の子どもたち》(1868),《海底2万哩Vingt mille lieues sous les mers》(1870),《80日間世界一周Le tour du monde en quatre-vingts jours》(1873),《神秘の島》(1875),《ミシェル・ストロゴフ》(1876),《2年間の休暇Deux ans de vacances》(1888。邦訳《十五少年》)などは今日でもなお世界各国で愛読されているし,繰り返し映画化もされた。日本では,川島忠之助訳《80日間世界一周》(1878),森田思軒訳《十五少年》(1896年)など,明治の翻訳文学史上で大きな位置を占めた。彼は科学小説,SF小説の始祖であるばかりでなく,科学技術を土台とした人類文明の明るい側面のみか,自己破壊にもつながる不安ななりゆきをも予感していた思想家でもある。R.ルーセルが述べたように〈少年少女文学〉の作家といって片づけるには〈あまりに深遠で謎の多い,またあまりに今日的な〉ベルヌは,近年ますます多角的な研究・評論の対象になっている。
執筆者:加藤 晴久
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…また,宇宙飛行を目ざした人々でもニュートンの示した8km/sという速度にあえて挑む人物は当分いなかったのである。 これに挑んだのは(もちろん想像であるが)19世紀のジュール・ベルヌで,《月世界旅行》の中においてであった。産業革命の真っただ中であって,これまで不可能と思われたことが近代科学によって次々に実現しつつある時代であった。…
…この系譜はブラッドベリ,ライバーF.Leiberなど現代のアメリカSFにまで一つの流れを形成しており,恐怖小説誌《ウィアード・テールズ》(1923‐54)はアメリカの大衆小説としてのSFを生む重要な土壌ともなった。しかし,真にSFに強力な方向性を与えたのは,フランスのベルヌとイギリスのH.G.ウェルズである。ベルヌは《月世界旅行》(1865)や《海底二万リーグ》(1870)において,科学技術による未来の夢と未知の世界への冒険をおおらかに展開し,自国以上にアメリカで大きな人気を得た。…
…作品は太い流れを形づくることはなく,おもしろい作品が多いが散発的である。H.H.マロが《家なき子》(1878)で遍歴する孤児のテーマを流布させたが,同じころJ.ベルヌがSFの先駆といわれる作品を精力的に書いて,夢想に現実性を与えた。少年小説の古典《二年間の休暇(十五少年漂流記)》(1888)も彼の手になる。…
…また58年には気球に乗り,世界最初の空中写真の撮影を試みたり,61年には3ヵ月をかけてパリの地下に発見されたカタコンベ(地下納骨堂)の撮影を,当時ようやく開発されたアーク灯による人工照明で撮影している。ナダールの波瀾に富んだ経歴はJ.ベルヌの《月世界旅行》の主人公のモデルとしても反映されているといわれる。彼が残した数々のポートレートやドキュメントは,単にパイオニアというだけではなく,完成された独自の世界をもって今も息づいており,とくにそのポートレートはすぐれた芸術的古典といいうるものであろう。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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