ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ホランド」の意味・わかりやすい解説
ホランド
Holland, John Henry
[没]2015.8.9. ミシガン,アナーバー
アメリカ合衆国の計算機科学者。「複雑適応系」,つまり集団行動を可能にする適応性のある部品でできたシステムの研究分野を切り開いた理論学者。さらに遺伝的アルゴリズム(→進化的計算)と学習分類子システムを体系化した。1950年マサチューセッツ工科大学で物理学士号,ミシガン大学大学院で 1954年に数学の修士号,1959年に博士号を取得し,学問としての計算機科学の発展に貢献した。ホランドの数学的技術は経済,生物学,計算機科学などさまざまな分野の問題解決に役立った。遺伝的アルゴリズムはコンピュータプログラムに生物の進化をまねたり分析したりすることを可能にし,分類子システムは帰納学習を可能にした。特に独創的な著書『遺伝アルゴリズムの理論:自然・人工システムにおける適応』Adaptation in Natural and Artificial Systems(1975)では,複雑な社会や体の仕組みは抽象的なルールの産物ではなく,さまざまなエージェントと相互作用の結果であることを示した。
ホランド
Holland, Henry
[没]1806.6.17. チェルシー
イギリスの建築家。建設業者の父から教育を受け,1771年造園家 L.ブラウンの弟子となり,建築部門の設計を担当。ブルックス・クラブ (1776~78) のあと,プリンス・オブ・ウェールズのロンドンの邸宅,カールトン・ハウスの拡張改修 (83~95) を手がけた。 86~87年ブライトンに海のパビリオンを設計 (のちに J.ナッシュによりロイヤル・パビリオンに改造) 。また投機的なタウンハウス建設に従事し,ハンス・タウンハウス群 (71,チェルシー) などを計画。フランス新古典主義に W.チェンバーズおよび R.アダム流の様式を加味した優雅で節度のある作風を得意とした。彼の事務所からは J.ソーンらを輩出。
ホランド
Holland, John Philip
[没]1914.8.12. ニュージャージー,ニューアーク
アイルランド生れのアメリカの発明家。リマリックで初等教育を受けた。船乗りになりたかったが,視力不足のため学校教師となり,1873年アメリカに渡り,79年までニュージャージー州パターソンで教師をつとめた。 79年アイルランドのフェニアン団から資金を得て,小潜水艇を建造,潜水運転に成功。 95年会社を設立,最初の艇は失敗であったが,2番目の『ホランド』号はテストを通り,1900年アメリカ海軍に正式採用された。その後も,イギリス,日本,ロシアから注文を受けた。これは,海上では内燃機関で運航し,潜水中は電動機で操縦するもので,現代の潜水艦の原型といえる。
ホランド(伯)
ホランド[はく]
Holland, Henry Rich, 1st Earl of
[没]1649.3.9.
イギリスの貴族。2代ウォリック (伯)の弟。国王ジェームズ1世の寵を受け宮廷の官職を歴任。 1624年伯爵。主教戦争に騎兵司令官として従軍し,敗北。清教徒革命においては打算と保身に走り,国王と議会の間に動揺を繰返して不信を買い,48年国王軍を率いて敗れ,翌年議会側によって処刑された。
ホランド
Holland, Philemon
[没]1637.2.9. コベントリ
イギリスの古典学者。ケンブリッジ大学を卒業後,オックスフォード大学で医学を学び,コベントリに定住。古典の翻訳で最も知られ,「翻訳の元締め」と呼ばれた。プリニウス (大) の『博物誌』 (1601) ,プルタルコスの『倫理論集』 (03) ,W.カムデンの風土記『ブリタニア』 (10) ,クセノフォンの『キュロスの教育』 (32) などの翻訳がある。
ホランド
Holland
ホランド
Holland, Josiah Gilbert
[没]1881.10.12. ニューヨーク
アメリカのジャーナリスト。筆名 Timothy Titcomb。『スプリングフィールド・リパブリカン』紙の編集をしたあと,『スクリブナーズ・マンスリー』を創刊 (1870) ,死去するまで編集長をつとめた。感傷的で教訓的な小説や詩は当時好評であった。
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