改訂新版 世界大百科事典 「モルドビア共和国」の意味・わかりやすい解説
モルドビア[共和国]
Mordvia
ロシア連邦内の共和国。ソ連邦の解体以前はロシア共和国内のモルドバ自治共和国であったが,1991年共和国を宣言,モルドビア共和国と改称した。面積2万6200km2,人口85万7000(2006)。首都はサランスクSaransk(人口29万9000,2004)。ヨーロッパ・ロシアの中東部,ボルガ川中流に位置し,北東部でチュバシ共和国と接している。東部は標高300mあまりのゆるやかな丘陵地帯で,西部はオカ川に続く平原をなしている。気候は比較的穏やかな大陸性で,1月の平均気温は-11.2℃,7月は19.2℃。年降水量は450~525mm。森林が国土の24.2%を占める。
民族構成はモルドバ人(モルドビン人)32.5%,ロシア人60.8%,タタール人4.9%,その他(ウクライナ人など)1.8%(1989)となっている。モルドバ人はフィン・ウゴル語派に属する言語を話す民族で,エルジャ系とモクシャ系の二つの集団に分かれる。それぞれエルジャ・モルドビン語とモクシャ・モルドビン語を用いるが,両語の間にはかなりのちがいがある(モルドビン語)。宗教はロシア正教である。モルドバ人はオカ川とボルガ川の間の地域の土着の民族と考えられ,6世紀のゴート人の歴史家の記録の中にすでにその名がみえる。しかし,ロシア人の進出に圧迫されて広い地域にちりぢりになり,1989年現在ロシア全体で115万人近くいたモルドバ人のうち,この共和国に住むのは27.2%にすぎない。
この地域は肥沃な黒土地帯に属するため,13世紀ごろから他民族の抗争の場となり,モンゴル,タタールの支配を経て,16世紀にはロシアの強い影響下におかれることになった。しかし,ロシア帝国によるモルドバ人の土地の奪取,重税,強制労働,16~17世紀の強制的なキリスト教化政策などはモルドバ人の間に強い不満をひきおこした。彼らはボルガ川を越えてウラルやシベリア方面へ逃散したり,あるいはボロトニコフの乱(1606-07),ラージンの乱(1670-71),プガチョフの乱(1773-74)などの農民戦争への参加という形で抵抗を示した。十月革命後の1921年に開かれた第1回モルドバ人共産党員大会は,モルドバ人の自治を要求したが実現は遅れ,ボルガ中流地方にモルドバ管区ができたのが28年,自治州に昇格したのが30年1月で,モルドバ自治共和国の成立は34年12月であった。
革命前のこの地域には若干の工業が生まれていたものの,農業の比重が圧倒的に高い地域であった。革命後,とくに50年代以降に機械,金属などの重工業が発達し,現在はサランスク,ルザエフカRuzaevka(人口5万1000,1989)を中心として半導体製品,照明器具,ダンプカー,掘削機などが生産されている。他にゴム,セメント,家具,紙なども生産されている。農業面では小麦を中心とする畑作と肉牛,乳牛,豚,羊などの牧畜が主であり,ジャガイモの生産でも名高い。
モルドバ人の共和国人口に占める割合の低さ,スターリンによる民族語弾圧政策以降の民族語教育の縮小等で,ロシア語への同化が著しい。1989年に民族語を母語とするのは67%であった。
執筆者:青木 節也
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報