群馬県太田市徳川町にあった時宗(じしゅう)の尼寺。徳川山と号した。鎌倉の東慶寺と並び縁切寺(えんきりでら)として知られる。鎌倉時代に新田氏の庶流徳川氏が開基となって創建され、南北朝時代に新田氏の衰亡とともに荒廃したと伝える。徳川家康は、徳川家の出自を新田徳川氏と結び付けるために、当寺を積極的に再興し、1591年(天正19)には朱印地100石を寄せた。家康の孫で豊臣秀頼(とよとみひでより)室の千姫は、大坂落城後の1615年(元和1)、秀頼と離縁して本多忠刻(ただとき)と再婚するために当寺に入った(千姫本人は入寺せず、身代わりに俊澄上人(しゅんちょうしょうにん)が住職として入寺したともいわれる)。以後縁切寺として公認され、寺役人が置かれ、駆け入って助けを求める女性たちの離縁の調停にあたっていた。徳川幕府の瓦解(がかい)に伴い、1872年(明治5)に廃寺となった。その後、1992年(平成4)尾島町によって本堂と玄関、門、堀や庭園が復元された。旧境内全域(約9反、約9000平方メートル)を町有地とし、前記復元に加え、縁切寺満徳寺の資料を中心とした資料館も建設されている。
[水谷 類]
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群馬県太田市にあった時宗の寺。徳川山と号す。鎌倉初期の御家人新田義季の女浄念尼を開山とする尼寺で,同氏出身の女が歴代住職を務めたという。徳川将軍家ゆかりの寺院として家康は朱印地100石を寄進し,鎌倉東慶寺と並ぶ2大縁切寺として知られたが,1871年(明治4)廃絶。現在,跡地に資料館がある。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
… 江戸時代,アジールはわずかに縁切寺と火元入寺の制にその名ごりをとどめた。縁切寺としては鎌倉の東慶寺と上州世良田の満徳寺の二寺のみが黙許されていたが,東慶寺は江戸時代の中期にも助命嘆願の女性を救済した例がある。離縁を願って駆け込む妻が追手に捕らわれそうになったとき草履など身につけていた物を門内に投げ入れると入寺したとみなされたが,これは駆込みと同時にアジール権が発動されたことを端的に語っている。…
…離縁状を交付しない夫に対して,妻(側)からの離婚請求権は法律上きわめて限定されていたが,その一つに縁切寺への駆込みがあった。縁切寺はアジールの残存と考えられ,江戸時代初期尼寺には一般に縁切寺的機能があったと思われるが,中期以降になると鎌倉松ヶ岡の東慶寺と上州(群馬県)勢多郡徳川郷の満徳寺の2ヵ寺のみに限られた。両寺が江戸時代を通じて縁切寺たりえたのは,徳川家康の孫娘千姫にかかわる由緒による。…
…日本の中世・近世社会に広く見られるものである。江戸時代,鎌倉松ヶ岡の東慶寺や上野国世良田の満徳寺が縁切寺として,寺内へ駆け込んだ女性に離婚の成立する慣行があったことはよく知られている。また奥州の守山藩では罪を犯した百姓たちが,その菩提寺などに駆け入り,〈寺抱え〉となることによって藩の処罰をうけずにすむ慣行が存在していた。…
※「満徳寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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