アルクイン(その他表記)Alcuin

デジタル大辞泉 「アルクイン」の意味・読み・例文・類語

アルクイン(Alcuin)

[730ころ~804]英国神学者カール大帝の招きでアーヘン宮廷学校を開き、フランク王国における学問復興の基を築いた。

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改訂新版 世界大百科事典 「アルクイン」の意味・わかりやすい解説

アルクイン
Alcuin
生没年:730ころ-804

カール大帝の宮廷に仕えた神学者著述家。別名フラックス・アルビヌスFlaccus Albinus。ノーサンブリアの生れで,ヨークに学び,修道士となる。782年以後カール大帝の宮廷に入り,事実上その指導者となった。彼の活動は主としてその書簡類からうかがわれるが,大別して3方面にわたる。第1は宮廷とトゥールにおける学校の創設で,7自由科をその教育の基礎におき,カロリング・ルネサンスへの道を開いた。第2は教義上の問題であり,キリスト養子説や〈フィリオクエFilioque問題〉に関して彼は適切な解決を見いだしたが,画像崇敬については,東方教会寄りの態度を示したといわれる。ローマ典礼を導入して,従来のガリア典礼と入れかえる努力も,主として彼による。第3は政治面であり,特にカールを西ローマ皇帝とするため,彼は多大の努力をしたと思われる。著書多数。トゥールのサン・マルタン修道院で没。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「アルクイン」の意味・わかりやすい解説

アルクイン
あるくいん
Alcuin
(735ころ―804)

ヨーロッパ中世初期の人文学者。イギリスのヨーク出身。ラテン名はアルクイヌスFlaccus Albinus Alcuinus。781年カール大帝に招かれて大陸に渡り、宮廷学校や文庫の経営にあたり、フランク王国の教育・宗教行政の整備に尽力した。当時イギリスの僧院に保存されていた古典文化の遺産を大陸に伝え、もって古典文化、宗教、政治の緊密かつ緊張ある結合特色とするヨーロッパ中世文化の基磯を定めるのに貢献した。著作は、文法修辞学、弁証法、幾何学、算術、天文学、音楽など古代学芸における自由七科の手引書をはじめ、『魂の本質について』の哲学的著作、三位(さんみ)一体についての神学的著作など多岐にわたり、いずれも平明で高い学問的水準を示している。数多い書簡も当時の歴史的状況を知る資料として貴重である。

[坂口ふみ 2015年1月20日]


アルクィン
あるくぃん

アルクイン

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百科事典マイペディア 「アルクイン」の意味・わかりやすい解説

アルクイン

カール大帝の宮廷に仕えた神学者,著述家。イングランドのノーサンブリア(七王国)生れでヨークに学ぶ。782年フランク王国の宮廷にはいり,古典学芸とキリスト教の融合による学制改革を行い,宮廷アカデミーに多くの学者や芸術家を集めカロリング・ルネサンスへの道を開いた。
→関連項目アインハルト

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「アルクイン」の解説

アルクイン
Alcuin[英],Alcuinus Flaccus[ラテン]

735~804

イングランドのヨーク生まれ。ヨーク大聖堂学校で教授,781年カール大帝に招かれ,アーヘン宮廷学校,トゥールのサン・マルタン学校を指導し,カール大帝の西ローマ帝国皇帝戴冠に尽力。ギリシア,ラテンの古典とキリスト教の調和をもってフランク王国に新文化をもたらし,エギンハルト,アンギルベルトら後進を教育し「カロリング・ルネサンス」をもりたてた。

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旺文社世界史事典 三訂版 「アルクイン」の解説

アルクィン
Alcuin

735ごろ〜804
イギリスの神学者
782年カール1世に招かれてアーヘンに行き,宮廷学校で指導,カロリング−ルネサンスの中心人物であった。『聖書』の註釈,神学や教育に関する論文,詩を残している。晩年はトゥールの修道院長。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「アルクイン」の意味・わかりやすい解説

アルクィン

「アルクイヌス」のページをご覧ください。

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世界大百科事典(旧版)内のアルクインの言及

【カロリング朝美術】より

…こうして,カロリング朝の芸術は大帝やその側近,貴族たちの宮廷や大修道院を中心に栄えた。大帝は学問の振興のためにアルクイン,テオドゥルフThéodulf(750ころ‐821)ら多くの学識者をヨーロッパ各地からアーヘンに招いた。彼らの中にはビザンティン帝国で起こったイコノクラスム(聖像破壊運動)に反対の論陣を張る者があり,大帝は有名な〈カールの書〉を発して聖像表現を認めた。…

【カロリング・ルネサンス】より

… カールの治世当初の荒廃した知的環境のもとでは,ラテン的・キリスト教的な古典復興の仕事は,かろうじて古典を保存できた修道院出身の学識ある聖職者の手にゆだねられた。宮廷の周辺には,アインハルトのようなフランク人もいたが,イングランドのアルクイン,イタリアのペトルスPetrus,スペインのテオドゥルフThéodulf(750ころ‐821)のように,外国から招かれた学者が多く,この運動の全西欧的な性格を示している。アイルランドの修道院が正しいラテン語の教育に貢献したこと,〈カロリング朝の小字体〉が16世紀以来活字体ローマ字にモデルをあたえたことも特筆されよう。…

【キリスト教文学】より

…まず7世紀にイギリスでは,《教会史》ほか多くの著作をもつベーダと,シャーボーンの司教でギリシア語とラテン語をよくし,長詩《聖処女賛頌》などを書いたアルドヘルムが相対して出た。後者の高弟がカール大帝の文教政策に参じたアルクインである。この時代にイギリスは,古代英語で宗教詩を制作した2人の詩人,キャドモンCaedmon(7世紀末)とキネウルフ(8世紀末)をもったことも注目に値する。…

【中世科学】より

…これらの内容は,まだそれほど水準の高いものではないが,中世前期において西欧知識人の基本的な科学的教養を培ったものとして重要である。8世紀にはカール大帝の下にイギリスからアルクインがよばれ,カロリング・ルネサンスが興るが,ここにもたらされたものはイングランドに地中海経由で一足さきに受け入れられていた科学知識を発展させたベーダらの天文学や自然学であった。またエリウゲナは独自な自然論を展開し,その宇宙論はT.ブラーエの天文体系に近づいたともいわれている。…

【図書館】より

…このような修道院文化は,大陸から離れたイングランドやスコットランドでも営まれた。 800年に即位したカール大帝は,ヨーク出身の神学者アルクインを招き,トゥールの町に学校と写字施設を設け,写本のコピーをとらせた。いわゆるカロリング・ルネサンスはここに開花する。…

【ラテン文学】より

…聖堂と修道院に学校が創設され,古典の教養の深い聖職者が各地から集められて,古典文化復興の気運が高まった。アルクイン,テオドゥルフTheodulf,ラバヌス・マウルスなどがこの時期に活躍している。10世紀のオットー帝国もイタリア文化を尊重してラテン語を公用語にしたが,12世紀から13世紀にかけて再びルネサンス運動が起こって,ボローニャ,パリ,オックスフォードなど各地に相ついで大学が創設され,アベラール,トマス・アクイナス,R.ベーコンなどの大学者が登場した。…

※「アルクイン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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