初期ルネサンスの代表的人文学者,建築家。ジェノバに亡命していたフィレンツェの名家に生まれ,パドバとボローニャで古典学と教会法を学ぶ。アルベルティ家に対する追放令が解除された1428年フィレンツェに戻り,F.ブルネレスキの建築,ドナテロの彫刻,マサッチョの絵画に接して芸術理論への関心を深めた。32-64年教皇庁の書記官を務め,博学万能の知識人として古典学,文法・修辞,詩学,倫理,教育論,美術・音楽理論,および古代の遺構の研究に裏付けられた建築,測量術などの分野できわだった功績を残した。彼は個人の能力とそれにもとづく行為を重視し,すべての人間は生来の才能を培うことによって得られる優れた資質,すなわち〈ビルトゥvirtù〉を市民社会のなかで十分に発揮すべきである,と主張した。都市は市民がビルトゥを形成し,行使する場と考えられ,芸術行為はその有効な一手段として,単なる技能ではなく,人文諸科学と同等の学問的基盤の上に位置づけられたが,これはルネサンスの芸術生産における注文主と芸術家双方の芸術理念の形成に大きな影響を及ぼした。著作には,視覚芸術の客観的表現方法である透視画法の理論とビルトゥの典型を表す歴史的人物画(イストリアistoria)の重要性を説く《絵画論》,家庭教育と人間形成,家族関係の根底としての愛情,家庭経済などを論じる《家族論》,教皇ニコラウス5世によるローマの都市整備計画の基礎資料として市内の記念建造物,市壁,テベレ川の位置を測定した《ローマの記録》など多いが,第一の代表作はラテン語による《建築論》(執筆1443-45,47-52)である。これはルネサンス時代最初の建築書であり,古代ローマのウィトルウィウス建築書にならって10書から構成され,内容は環境,材料,石工事,都市設備,建築各論,建築美と装飾,治水,修復など広い範囲に及ぶ。彼はこのなかで,知的創造としての設計と実際の工事を区別し,前者において,5種のオーダーを基本とする古典様式と〈コンキニタスconcinnitas〉とよばれる均整原理に従うことによって建築美が保障されると考えた。しかし,一方で建築行為はビルトゥを視覚的に表現する手段として広い社会的視野から考察されているものの,建築美の要件である比例と調和に関する議論は,以後の造形理念に実際の設計から遊離した抽象的性格を与えるきっかけとなった。1430年代後半以降,中・北部イタリアの君主,名士の依頼で設計を行ったが,現場で工事を指揮することはなかった。その作品は,彼が賞賛したブルネレスキの建築とは対照的に,古代ローマ建築から直接導かれた重厚なモティーフと壁体の力感を基調とする。しかし明快な比例構成は,建築全体の空間的ひろがりのなかで適用されるというよりは,むしろその一部,とくにファサードの構成手法として活用されている。代表的建築作品に,ルチェライ邸,サンタ・マリア・ノベラ聖堂のファサード上半分(以上フィレンツェ),サン・フランチェスコ聖堂(リミニ),サン・セバスティアーノ聖堂,サンタンドレア聖堂(以上マントバ)がある。
執筆者:日高 健一郎
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イタリアの建築家、著述家。フィレンツェの商人の庶子としてジェノバに生まれ、パドバとボローニャの大学に学んだ。建築、彫刻、絵画に関する多数の論著を残しているほか、哲学、数学、文芸と多方面にわたる深い研究によってルネサンス・ヒューマニズムを代表する一人である。美術家としては建築の設計に優れた業績を残した。リミニのテンピオ・マラテスティアーノ(1446~1455)は、既存の小聖堂を領主マラテスタ家の霊廟(れいびょう)に改修したもので、古代ローマの建築様式が活用されている。フィレンツェのパラッツォ・ルチェライ(1446~1451)の壁面構成にも古代ローマの建築を応用し、新しい外観効果をみせている。同市のサンタ・マリア・ノベッラ聖堂正面のデザイン(1456~1470)は、その後建てられた各地の聖堂の手本とされた。
[濱谷勝也]
スペインの詩人。カディスに生まれる。民衆的なテーマと詩型をもつ処女作『陸の船人』(1924。国民文学賞)は彼の名を一躍高めた。のちヨーロッパの前衛的な手法を試み、現代生活をモチーフにした『石灰と石塊』(1929)、意識下の混沌(こんとん)の世界を照射した代表作『天使たち』(1929)を発表した。彼の政治的関心は深く、内戦では人民戦線側の闘士として社会派の詩を武器に知識人の先頭にたった。1939年アルゼンチン、イタリアに亡命。戦後の作品に、故国へのやみがたい郷愁を基調にした『はるかに生きるものへの復帰』(1952)、『海の時』(1953)などがある。1977年スペインに帰る。ほかに戯曲『プラド美術館の戦いの夜』(1956)、回顧録『失われた木立ち』(1949、改訂版1987)など。1983年セルバンテス賞受賞。
[有本紀明]
『『世界の文学37 現代詩集』(1979・集英社)』▽『『世界名詩集大成14 南欧・南米篇』(1960・平凡社)』
ドイツの鉱山地質学者。シュトゥットガルトに生まれ、郷里の町で鉱山学と経済学を学ぶ。1815年ザルツの製塩所に勤め、1820年にはフリードリヒシャルの岩塩鉱山の堅坑(たてこう)掘進に成功して監督官に任命され、1852~1870年には同鉱山の支配人を勤めた。その間ドイツのトリアス紀(三畳紀)の地層について詳細に研究し、1834年には『ブンター砂岩、ムッシェルカルクおよびコイパー層とこれらの地層群について』と題する論文を公表し、これらの地層をトリアス系(三畳系)と命名した。この名称は今日でも中生代の年代区分の単位として使用されている。
[大森昌衛]
1404~72
ルネサンス期イタリアを代表する人文主義者,建築家。教皇庁に書記官として仕えた。ギリシア,ローマの古典を徹底的に学び,芸術理論書『絵画論』『彫刻論』『建築論』を著したほか,フィレンツェのルチェッライ宮殿,マントヴァのサン・タンドレア聖堂などを設計。『家族論』『魂の平安について』『テオゲニウス』『首長論』は,時代の先端と切り結ぶ市民道徳論。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 (社)全日本ピアノ指導者協会ピティナ・ピアノ曲事典(作曲者)について 情報
…一方,国際ゴシックの優美な形式主義は,フラ・アンジェリコ,ボッティチェリに受け継がれた。建築では,ブルネレスキが古代ローマ建築を研究して,パッツィ家の礼拝堂などに古典的比例を回復し,アルベルティはウィトルウィウスにならった〈十書〉構成の,ラテン語によるルネサンス最初の建築書を著した。彫刻ではドナテロが古代彫刻の比例とリアリズム,これにゴシックの精神を加えて偉大な先例をつくったが,ベロッキオは表面的な写実に堕したというべきであろう。…
…マサッチョ,ドナテロとそれに続くフィレンツェ画家の作品にその発展が見られる。アルベルティはこれを継ぎ,《絵画論》(1436ころ)で一点透視図法を〈正統なる手法〉と定め,ピエロ・デラ・フランチェスカ,パチョーリ,バルバロ,セルリオ,ダンティなど16世紀にいたるまでその理論と実践が続いた。16世紀初めにデューラーはアルプス以北に透視図法を伝えた。…
…これらの体系に関しては,前1世紀のウィトルウィウスの《建築十書》が唯一の典拠であるが,彼にあってはこれらはまだ,彼のあげる建築の要件の一つ〈オルディナティオordinatio〉とは直接に結びつけられておらず,その比例関係も固定的なものではなかった。これらを〈オーダー〉の名のもとに建築の最高の規範にまで高めたのは,L.B.アルベルティ以後のルネサンス建築家たちであった。アルベルティの《建築論》(1483)ではまだオーダーの名称はなく,またトスカナ式をドリス式と同一視して円柱を4種としているが,比例はより厳密に,ピタゴラス的な調和平均の比例体系によって,建物全体にゆきわたるものとして定められていた。…
…ルネサンスとバロック時代の建築家は,画家・彫刻家出身の人物が多く,芸術的才能は神が授けてくれる天分と信じていたため,ウィトルウィウスが伝えたギリシアのアルキテクトンの概念が強くよみがえり,建築家は単なる職人や技術者とは異なる主導的芸術家であるとする思想が生まれ,現代にまで及んでいる。この考えを初めて具体化したのはL.B.アルベルティで,彼は劇作家,音楽家,画家,建築家,数学者,科学者,競技者を兼ね,しかも美学者,建築学者として《絵画論》や《建築論》10巻を著すといった〈万能の天才〉であり,多忙のためもあって,建築の設計のみを行い,建物の建造は他の建築家に任せるという設計者・施工者の分離をみずから行った。ルネサンスとバロック時代の建築はひじょうに美術的で趣向豊かなものであったから,建築家には各種の職人,美術家,工芸家を手配し,指図する能力が必要であった。…
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[ルネサンスから近世――オテル,アパルトマンとテラス・ハウス]
ルネサンス住宅建築の課題は,中世以来の左右非対称の平面構成を古典主義的な左右対称の壁面構成と両立させることであった。アルベルティはフィレンツェに建つパラッツォ・ルチェライPalazzo Rucellai(1446‐51)の正面壁面にローマのコロセウムに由来するオーダーとアーチの組合せのデザインを応用し,ルネサンス的な意匠をもつ都市邸宅の端緒を開いた。イギリスのスミッソンRobert Smythson(1535ころ‐1614)は,ホールを中心とする中世的な大邸宅に左右対称の壁面構成を与える試みを,ロングリート・ハウス(1568‐75ころ)等のカントリー・ハウスの設計を通じて行った。…
…これを完成作品の予備段階として芸術的に劣ったものとみるか,あるいは芸術家の精神により直接的にかかわるものとして重要視するかは,時代により個人によって多様である。
[素描と素描論の変遷]
西欧ルネサンス期には,とくに素描の意義が重要視され,チェンニーニは,〈芸術の基本はディセーニョ(素描)と色彩にある〉と述べ,ギベルティは,〈素描は絵画と彫刻の基礎であり,理論である〉と述べ,L.B.アルベルティは,絵画の三要素は〈輪郭,構図,彩光(明暗)〉であるとし,この三要素のうちもっとも基本的なことは,〈空間と物体の境界〉としての〈線〉であるとした。これら初期ルネサンスの素描論の骨子は,空間と物体の明晰な認識とその表現の手段として,線による明確な輪郭づけが基本であるという考えである。…
… ルネサンスに入ると,再びウィトルウィウスを基礎とする比例理論が建築の中心課題となり,ここでもまたピタゴラスの理論が重要な手がかりとされたが,しかし人体的比例の堅持と,それに加えて透視図法的な,一定の視点からの三次元的比例が主たる関心事となった。L.B.アルベルティ,フランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニ,レオナルド・ダ・ビンチといった当時の代表的比例理論家たちは,音楽用語を用いて建築の比例を論じ,調和級数によって空間の奥行きの比例を決定しようとしていた。16世紀以降は,さらに新プラトン主義の影響による数の神秘主義が加わり,きわめて知的な古典主義的比例の体系が確立されていく。…
…ルネサンス期には,拮抗する三大勢力(ミラノ,ベネチア,教皇領)の緩衝地帯として政治上重要な地位を占め,また学芸擁護の中心地ともなった。ルイジ3世(在位1444‐78)はルネサンスを代表する英明君主で,都市を整備するとともに,建築家L.B.アルベルティを招請し,サン・セバスティアーノ聖堂,サンタンドレア聖堂の設計を委嘱。また,A.マンテーニャを宮廷画家として抱え,〈カメラ・デリ・スポージ〉に一族の生活を主題としたフレスコ画を描かせた。…
…この戦いは,スペイン人の愛国心を鼓舞するできごととして長く記憶され,セルバンテスも戯曲《ヌマンシア》を書いている。またR.アルベルティは内戦中にフランコ軍によって包囲されたマドリードを舞台にして同名の戯曲(初演1937)を書いた。【本村 凌二】。…
※「アルベルティ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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