改訂新版 世界大百科事典 「アンデス文明」の意味・わかりやすい解説
アンデス文明 (アンデスぶんめい)
南アメリカ大陸のペルーを中心に,前1000年ころから西暦1532年まで存続した諸文化の総称で,アンデス先史時代の形成期中期から後古典期の終りまでの時代にまたがる。アンデス地帯に人類が住みはじめるのはおよそ2万年前といわれる。それから前4000年までを石期という。およそ1万年前,アンデス地帯の住民は,後氷期の新しい環境への適応として,シカやラクダ科動物(ラマなど)の狩猟と野生植物の採集を生業の基盤にすえ,高原や山間の谷間に住みこんでいった。
つぎの古期(前4000-前1800)になると,山間の谷間や海岸地方にヒョウタン,豆類,カボチャ,トウガラシなどの栽培が行われるようになり,海岸では豊かな海産物への依存を主とし,原初的な農耕との組合せによって定住生活を確立した。前2500年をすぎるとワタを栽培し,綿糸や綿布の製作もはじまった。山間部でも定住生活の方向が進み,前2千年紀初頭にはコトシュにみるように石造の神殿建築も現れる。形成期(前1800-西暦紀元前後)の前期には土器や綿織物が普及し,中期(前1100-前500)にはトウモロコシ,マニオク(キャッサバ),ラッカセイなどが,灌漑設備をもつ畑で栽培され,標高4000mをこえる高原ではラマが家畜化され,アンデス地帯は食糧生産を生業の柱とするようになった。中期は,チャビン・デ・ワンタルの大神殿に代表されるチャビン文化の時代で,農耕その他の技術と宗教をひろめる役割を果たした。
古典期(西暦紀元前後-700)に入ると,灌漑設備の規模が大きくなり,海岸河谷の下流平野や,高地の山の斜面などが耕地化され,ジャガイモ,サツマイモ,コカその他の栽培やアルパカの飼育も普及し,高い生産力と大きくかつ稠密な人口をもつ社会が各地に成立し,それぞれが独特の芸術様式や大建築を伴う政治的・宗教的センターを築いた。モチカ文化,ナスカ文化,カハマルカ文化,ティアワナコ文化などは,古典期を代表する文化である。8世紀に入ると,ティアワナコ文化の強い影響下に成立した中部高地南部のワリ文化が急速に拡大し,古典期の地方文化を衰退に追いこむ。これ以後を後古典期(700-1532)という。ワリのひろがりによる混乱はまもなくおさまり,新しい地方文化がふたたび各地に台頭する。北海岸ではモチカの伝統をひくチムー,南海岸ではナスカの系統のイカなど大きな王国ができ,高地では,カハマルカ,ワンカ,チャンカ,ルパカなど諸民族が支配圏の拡大を競っていた。そのような抗争のなかから,南高地のクスコの谷間に生まれたインカ族が強力になり,15世紀後半にはペルー・アンデスの全土をはじめ,それまでのアンデス文明の範囲をこえて,コロンビアからチリにまたがる地域を征服し,インカ帝国を建設した。しかし,インカ帝国は,1532年F.ピサロを筆頭にしたスペイン人によって征服され,それとともにアンデス文明の歴史も終わる。
→インカ文明
アンデス文明の研究は19世紀末のドイツ人マックス・ウーレ,20世紀前半のペルー人J.C.テーヨによって本格的な学問研究の軌道にのせられた。テーヨは,チャビン,コトシュ,パラカスなどの諸文化の重要性を明らかにし,のちに国立人類学考古学博物館を創設し,研究と遺物保存の中心的機関とした。1940-50年代はクローバー,ストロング,ベネット,ウィリー,ロウなどアメリカの学者が活躍し,ビルー谷調査で編年体系を確立した。60年代では,泉靖一をはじめとする日本の調査団がコトシュほか形成期の遺跡発掘を手がけるようになった。その頃からペルー人の研究者も多くなり,70年代では石期や古期の研究にフランス,アメリカ,ペルーの研究者が活躍した。
執筆者:大貫 良夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報