イエメン(英語表記)Yemen

翻訳|Yemen

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

正式名称 イエメン共和国 Republic of Yemen。
面積 52万8076km2
人口 2480万(2011推計)。
首都 サヌア

アラビア語では al-Jumhūrīyah al-Ymanīyah。アラビア半島南西端の国。北はサウジアラビア,東はオマーン,南はアデン湾とアラビア海,西は紅海に接する。 1990年5月,イエメン=アラブ共和国 (北イエメン) とイエメン民主人民共和国 (南イエメン) とが統合して成立。国土は紅海とアデン湾岸の狭い海岸平野,内陸部のイエメン高地,北部の砂漠地帯に分けられる。イエメン高地は夏季でも約 28℃,モンスーンの影響で降雨が多い。海岸平野は乾燥地帯で,涸れ川 (ワディ) 地下水,段丘の流れ水を利用して農業が行なわれる。北イエメンは古くから文化が開け,ミナ文明,サバ文明 (前9世紀~前 115) ,ヒムヤル王国 (前 115~後 525) の中心であった。7世紀にイスラム教徒に支配され,16世紀にオスマン帝国の統治を受けた。 1918年にイエメン王国として独立。 1962年アブドゥッラー・アッサッラールの革命が起こり,イエメン=アラブ共和国となった。その後,王制派と革命派の対立から内戦に発展,エジプトやサウジアラビアなどの外国勢力の介入が続いた。一方,南イエメンアデン地方は,古くから地中海諸国と東アジアとの中継地として重要であったが,1839年イギリスの東インド会社の手に落ち,インド政庁に所属した。イギリスはこの港を守るため,周辺の首長国を徐々に保護領としていった。 1937年アデン地方はイギリスの直轄植民地とされ,1959年から植民地と保護領からなる連邦化が進められた。こうして 1963年に南アラビア連邦が成立,1967年までイギリスの保護下にあった。 1967年 11月南イエメン人民共和国として独立,1970年にイエメン民主人民共和国と改称。 (→イエメン内戦 ) 農産物はイエメン高地のコーヒーのほか,海岸平野では,サトウキビ,大麦,トウモロコシ,ナツメヤシの実,果実,コーヒー,綿花,カート (軽い麻薬) が栽培され,ヒツジ,ヤギなどの牧畜も行なわれる。

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知恵蔵の解説

アラビア半島南西部の国。首都はサヌアで、旧市街は世界文化遺産に登録されている。面積は日本の約1.4倍。北はサウジアラビア、東はオマーンと接する。西は紅海、南はインド洋に面し、両海洋を結ぶバブルマンデブ海峡(幅約30キロ)は古くから海上交易の要衝になっている。人口は約2440万人(2013年)で、ほとんどがイスラム教徒のアラブ人である。宗派別ではスンニ派が過半数を占めるが、北部ザイド派(シーア派の一派)が多い。
主要産業は農牧業。高温多雨な沿岸部を中心に、ナツメヤシ、綿花、トウモロコシ、カート(国内では合法な麻薬)などの栽培が行われている。内陸の高原地帯はコーヒー栽培が盛んで、旧積出港モカの名を取ったモカ・コーヒーが有名。国の経済を支えるのは石油・天然ガスだが、周辺産油国と比べると産出量・輸出量とも極めて少ない。近代工業も発達しておらず、また期待された観光業も長年の政情不安で低迷しており、「中東の最貧国」から脱却できていない。
歴史は古く、紀元前10世紀頃にはいくつかの古代王朝が栄えた。「旧約聖書」にも、イスラエルのソロモン王を訪ねた「シバの女王」の記述がある。その後7世紀にイスラム化し、16世紀以降はオスマン帝国(オスマントルコ)の支配を受けた。第1次世界大戦後の1918年に北部がオスマン帝国から独立。しかし南部は、東インド会社の貿易港アデンを持つイギリスの植民地支配を受け続けた。南イエメンとして独立したのは67年のことである。その後、北イエメンはアメリカ、南イエメンはソ連の支援を受け、長らく対立関係にあったが、90年5月に南北統一を果たした。しかし、統一政権に入った旧南北代表の確執が収まらず、94年に内戦に突入。これに勝利した旧北のサレハ大統領が、「アラブの春」で退陣に追い込まれる2011年まで独裁政治を続けた。その後、副大統領だったハディが暫定大統領に就任したが、政情は安定せず、15年2月にはイランの支援が伝えられるザイド派の武装組織「フーシ」が首都サヌアを制圧した(15年4月現在)。

(大迫秀樹 フリー編集者/2015年)

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朝日新聞掲載「キーワード」の解説

人口は約2400万人。主な宗教はイスラム教で、北部はシーア派系、南部はスンニ派系が多い。北部は1918年にオスマン・トルコから、南部は67年に英国から独立。部族間の対立に加え、北部が親米、南部が親ソ連の路線を取ったために対立が続いた。90年に統合したが、94年には南北間で内戦も起きた。

(2015-03-27 朝日新聞 朝刊 3総合)

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百科事典マイペディアの解説

◎正式名称−イエメン共和国al-Jumhuriya al-Yamaniya/Republic of Yemem。◎面積−55万5000km2。◎人口−2426万人(2010)。◎首都−サナアSana(171万人,都市域人口,2004)。◎住民−大部分がアラブ。他にインド系。◎宗教−イスラム(国教)。◎言語−アラビア語(公用語)。◎通貨−イエメン・リヤールYemen Rial。◎元首−大統領,アブドラッボ・マンスール・ハーディAbdo Rabu Mansour al-Hadi(1945年生れ)。◎首相−ハーリド・マフフーズ・アブドッラー・バハーハKhaled Mahfoud Abdullah BAHAH。◎憲法−1994年10月改正憲法公布,2001年2月改正。◎国会−一院制(定員301,任期4年,2001年6年に延長)。◎GDP−266億ドル(2008)。◎1人当りGNP−280ドル(1998)。◎農林・漁業就業者比率−47.4%(2003)。◎平均寿命−男61.8歳,女64.5歳(2013)。◎乳児死亡率−57‰(2010)。◎識字率−62.4%(2009)    *    *アラビア半島南西部の共和国。アラビア名はヤマン。イエメン・アラブ共和国(北イエメン)とイエメン人民民主共和国(南イエメン)が1990年に統合して成立した共和国。大部分は不毛の地であるが,2000m級の山地はアラビア半島で最も気候に恵まれ,乾燥農業が行われ,穀物,果実を産する。特産物はモカ・コーヒーでモカ港から積み出される。古来〈幸福のアラビア〉と呼ばれた肥沃の地。 北イエメンは1911年オスマン帝国の宗主権のもとに事実上の独立を得,1934年には国境画定で紛争を起こしていたサウジアラビアと和平協定を結び,独立王国となった。1962年9月王制反対派によるクーデタで共和国が樹立された。一方,南イエメンの旧首都アデンは中継貿易港として古くから栄えた。1839年イギリス東インド会社がアデンを占領,1869年のスエズ運河開通などでアデンの商業・戦略的価値はいっそう高まり,1937年英国はアデンを直轄植民地とした。第2次大戦後,対英独立闘争が戦われ,1967年11月南イエメン人民共和国として独立した。1990年5月の南北統一後,旧南北指導者間の対立から1994年に内戦が起きたが,旧北側が勝利した。1997年4月,内戦終結後初の総選挙が行われ,国民全体会議が躍進。1999年,初の直接選挙による大統領選挙が実施された。2007年天然ガス田が発見され2009年生産を開始したが,一人当たりのGDPは中東でも最貧。失業率が40%に近く出稼ぎも多い。〔2011年以降〕 2011年1月,終身大統領制に道を開く憲法改正案や息子への権限委譲などサレハ大統領の独裁に対する不満が噴出,サナア大学の学生たちのデモからはじまった政権交代要求のデモが,2月,3月に全土に拡大。大統領側は治安部隊を投入,デモ隊への発砲事件が続き多数の死傷者が出た。反政府デモはさらに大規模化し,4月,野党連合は大統領に権限委譲計画を提案したが,大統領は拒否。サウジアラビアなど6ヵ国の〈湾岸協力会議〉が大統領の早期退陣を促す事態収拾案(湾岸協力会議GCCイニシアティブ)を大統領と野党連合双方に提示し調停をこころみ,米国も支持を表明した。国連もGCCイニシアティブへの署名を大統領に促す安保理決議を全会一致で採択した。サレハ大統領は早期退陣を否定,野党連合も収拾案を拒否,治安部隊と反政府勢力,反政府部族が対峙する情勢が続き多数の死者が出るなど内戦の様相を呈しはじめた。こうしたなか,地方での政府の治安維持能力の低下を招き,イスラム過激派組織〈アラビア半島のアル・カーイダ〉(AQAP),シーア派系勢力フーシ派(シーア派のザイド派を信奉。部族指導者アブドルマリク・フーシが率いる武装組織でイエメン北部が本拠。北部のサアダ県等を実質的に支配),南部運動(通称ヒラーク,南部(旧南イエメン)の分離・独立を主張)が勢力を拡大。さらに南部で,この混乱に乗じるかたちでアル・カーイダ系のイスラム過激派武装勢力(AQAP)が台頭し重大な脅威となり,イエメン軍と戦闘状態に入った。11月,サレハ大統領は,最終的に訴追免除などを条件に湾岸協力会議の調停案を受け入れ退陣を表明,ハーディ副大統領は,野党連合の推薦するバシンドワ元外相を暫定内閣の首相に指名。2012年2月暫定内閣のもとで行われた選挙で,ハーディ前副大統領が,暫定大統領に信任され,事態はようやく収拾の方向に動いた。2011年の反政府デモを先導してきた,ノーベル平和賞(2011年)受賞の女性ジャーナリスト,タワックル・カルマンは,ハーディ大統領支持を表明している。2013年,国民各層からの幅広い参加(シーア派系勢力フーシ派や南部運動(ヒラーク)の一部も参加)を得て新憲法の骨格を協議する国民対話が開始。2014年国民対話の終了を踏まえて,中央集権制から連邦制への移行等が合意され,全土を6州(北部4州と南部2州)に再編することを決定。さらに新憲法案を起草する憲法起草委員会が発足した。諸政党は,〈平和・国民パートナーシップ合意〉に署名し,停戦及びバハーハ首相の新内閣の発足等に合意した。〔内戦〕 しかし,2014年2月以降,フーシ派武装組織がアムラン県やジャウフ県に進出し,イエメン北部で勢力を拡大。8月,政府が連邦制を導入する新憲法案を示したことなどに反発し,政府に憲法案の修正や政府ポストの割り当てなどを要求。フーシ派の呼びかけに応じ,燃料補助金廃止の撤廃及び内閣総辞職を求める反政府デモが発生。9月には,イエメン政府軍・治安部隊とフーシ派武装組織がサナア市で大規模な衝突となり,フーシ派がサナア市の政府機関・国軍関連施設を占拠した。フーシ派が権力を掌握し,独自の政府樹立を進めている。一方,同国南部では独立をめざす南部運動がイエメンからの分離を宣言,イエメンは内戦状態に陥った。さらにフーシ派は2015年3月,大統領官邸を武力で制圧し,ハーディ大統領はサウジアラビアに脱出し,政府は拠点をアデンに移した。フーシ派が急速に力をつけた背景には,アラビア半島地域での影響力拡大を狙うシーア派の大国イランからの援助がある。サウジアラビアを中心とするスンニ派の周辺国有志連合はフーシ派に対して空爆を開始,事態は中東地域全体を巻き込む戦乱に発展する懸念が出てきている。他方,この混乱に乗じて拡大したイスラム過激派AQAPは,フーシ派が台頭した2014年以降,これと対抗する形で,サナアなどでテロ活動を活発化させており勢力を拡大している。
→関連項目アデン湾

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世界大百科事典 第2版の解説

アラビア半島の南西端部に位置し,アラビア語ではヤマンal‐Yamanという。イエメン・アラブ共和国(北イエメン)とイエメン人民民主共和国(南イエメン)に分かれていたが,1990年5月,南北統一がなり,イエメン共和国が誕生した。
【歴史】
 イエメンとハドラマウトは南アラブの原住地で,彼らはここにサバ,ハドラマウト,カタバーン,マイーン,ヒムヤルなどの王国を建設した。これを総称して古代南アラビア王国というが,その絶対年代については定説がなく,最も古いサバ王国は,その王の名がアッシリアの碑文に現れる前8世紀末以前に建国されたとされるが異説もある。

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精選版 日本国語大辞典の解説

(Yemen) アラビア半島南端の共和国。紅海とアラビア海に面する。コーヒー、綿花、革製品などを産出。特に輸出港の名前を冠したモカコーヒーが有名。一九一八年オスマントルコからイエメン王国として独立、六二年に共和制に移行したイエメン‐アラブ共和国(北イエメン)と、一九六七年イギリスから南イエメン人民共和国として独立、七〇年に国名を改称したイエメン民主人民共和国(南イエメン)とが、九〇年に統合して成立。首都サナア。

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旺文社世界史事典 三訂版の解説

アラビア半島南西端に位置し,紅海に面する共和国。首都サヌア
イエメンは純粋アラブ人の発祥の地といわれ,古くは“幸福なアラビア(アラビア−フェリックス)”と呼ばれ,交易で栄えた。サバー王国(前950〜前115)の後,ヒムヤル王国(前115〜後525)が栄え,6世紀からエチオピア(アクスム王国)の支配を受ける。9世紀ごろシーア派のザイドを開祖とするラシード家の領土となり,1517年オスマン帝国の侵攻(1817年再侵攻)を受け,その勢力下に組み込まれた。
【旧北イエメン】北イエメンでは1918年,ザイド派による統一と独立で,イエメン王国が成立。1958〜61年にはアラブ連合と連邦を結成したが,62年クーデタで国王が追放されて共和国が成立。
【旧南イエメン】南イエメンでは,古代から中継貿易地として栄えたアデンが,ザイド派に支配され続けたのち,1839年イギリスに占領され,1937年直轄植民地とされた。第二次世界大戦後,イギリスの保護下で,1959年アデン植民地と周辺首長国で南アラビア首長国連邦を設立,さらに周辺の首長国を加えて63年南アラビア連邦を結成。しかし,民族解放戦線(NFL)を中核とする反英闘争が活発化し,1967年南イエメン人民共和国として独立。1970年には新憲法を発布,国名もイエメン民主人民共和国に改称,79年にはソ連と友好協力条約を結んだ。
【南北統一とその後】1989年11月南北イエメン代表が統一に関する憲法草案に調印し,90年5月正式に統一を宣言,国名をイエメン共和国とし,初代大統領に北イエメンのサハレが就任。外交はアラブ民族主義をとり,湾岸戦争ではイラク寄りの立場をとったため,未確定国境問題をかかえるサウジアラビアとの関係が冷却化した。1993年の総選挙後,連立内閣が発足したが旧南北間の対立が深まり,翌94年5月本格的な内戦に突入した。旧南側は「イエメン民主共和国」の独立を宣言するが,7月旧北軍がアデンを制圧し,内戦は終了。9月議会は複数政党,市場経済,イスラーム法を柱とすることを定めた。1997年の総選挙でも,与党の国民全体会議が圧勝。

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