インダス文明(読み)インダスブンメイ

デジタル大辞泉 「インダス文明」の意味・読み・例文・類語

インダス‐ぶんめい【インダス文明】

前3000年から前1500年ごろにかけて、インダス川流域に栄えた文明。アーリア人のインド侵入以前のもので、金石併用の文化を持ち、公共建築などを完備した高度な計画都市を建設した。モヘンジョダロハラッパーなどに遺跡が残る。世界最古の文明の一。→四大文明

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精選版 日本国語大辞典 「インダス文明」の意味・読み・例文・類語

インダス‐ぶんめい【インダス文明】

  1. 〘 名詞 〙 ( インダスはIndus ) 紀元前三〇〇〇~前一五〇〇年頃、インダス川流域に栄えた世界最古の文明の一つ。モヘンジョダロ、ハラッパーなど、総計一〇〇以上の遺跡が現存する。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「インダス文明」の意味・わかりやすい解説

インダス文明
いんだすぶんめい

インダス川流域に、紀元前2000年前後を中心として栄えたインドの古代文明。D・R・サハニらによるハラッパー遺跡や、R・D・バナルジーらによるモヘンジョ・ダーロ遺跡の発見、発掘によってその存在が明らかになり、1921年以来今日に至るまで、各地で発掘調査が続けられている。

[小西正捷]

年代と分布

かつてインダス文明の年代は前2500~前1500年ごろと考えられていたが、昨今では前2350~前1800年ごろを最盛期とし、それぞれ前後に数百年にわたる生成期と衰退期を置く考え方が強まってきている。インダス文明の物質的基盤をなす遺物の集合をとくにハラッパー文化の名でよぶが、都市文明の様相を示すか否かにかかわらず、ハラッパー文化の遺物を出土する遺跡の数は、今日、大小あわせておよそ300ほどが確認されている。その広がりは他の古代文明に比べてきわめて広範囲にわたっており、東はデリー北西のアーラムギールプル、西はアラビア海沿岸のイラン国境にもほど近いソトカーゲン・ドール、北はジャム地方のマーンダー、南はカンベイ湾岸のマールワーンにまで及んでいる。すなわち距離にして東西1600キロメートル、南北1400キロメートルという範囲であるが、実は、西はバルーチスターン山脈、東はタール砂漠においてはその分布がほとんどみられず、またこれら300ほどの遺跡の90%以上が小規模な村落遺跡にすぎないことにも注意せねばならない。

[小西正捷]

指標遺物

ハラッパー文化の遺物はきわめて多岐にわたる。まずハラッパー土器であるが、多くはろくろ製で赤色の化粧土をかけ、そこに黒色顔料で、交差円文、魚鱗(ぎょりん)文、格子目文、市松文、波状文、帯状文などの幾何学文様のほか、ナツメヤシ、インドボダイジュ、ロゼットなどの植物文、クジャク、シカ、魚などの動物文を描いている。その器形は、大形の貯蔵甕(がめ)や水甕、壺(つぼ)、鉢、埦(わん)、高坏(たかつき)、ビーカー、尖底(せんてい)ゴブレットなど種類が多く、実用的なものほど無文の傾向がみられる。また無文土器のうち特徴のあるものには、火桶(ひおけ)とも漉器(こしき)とも考えられている多孔土器があり、丸底で直立した高い器壁の一面に多くの小孔をうがっている。その他の土製品では、母神像と思われるものをも含む多種の人偶や動物土偶、また車などをモデルとした玩具(がんぐ)があり、用途不明の小形陶板(テラコッタ・ケーキ)も特徴的である。これは1辺が6~10センチメートルの隅丸三角形をなす粗製の素焼陶板で、厚さは3センチメートルほど。普通は無文無彩色であるが、カーリーバンガン遺跡出土のものにはヤギの供犠(くぎ)を表す線刻画がみえ、この例などはなんらかの儀礼に用いられた可能性もある。

 石器は高度な技術を駆使した特殊なものが目だち、しかも銅製品がそれほど一般に普及していなかったようにみえることから、この文化が金石併用文化としての特徴をもっていたことがわかる。銅製武具類も数少ないが、脱蝋(だつろう)法によっていくつかのみごとな青銅製人像が鋳造された。人像には砂岩、石灰岩、凍石(ステアタイト)製のものもいくつかある。都市部では凍石製の印章が出土するが、これは普通、1片が2~5センチメートルの方形をなす薄い小形のものである。表側にはゼブウシ、ゾウ、カモシカ、サイ、トラなどの動物のほか、一角獣や半神半獣、またいくつかの動物を組み合わせて一つにしたもの、神々を表したと思われる人物など神話的モチーフもみられ、いずれもていねいに陰刻されている。上方にはインダス文字が彫り込まれているが、未解読のため、その用途はわからない。裏側に紐(ひも)を通すための有孔のつまみがついているため、護符の用途もあったかもしれないが、封泥(ふうでい)に用いられた例も数多い。そのほかビーズなどの装身具類も多数出土しており、ことに紅玉髄(こうぎょくずい)製のものなどは、おそらくメソポタミア方面にまで輸出された重要な品目であったろう。また尺や分銅も一定の規格で統一されており、都市プランにみられる徹底した計画性とともに注目される。

[小西正捷]

都市の様相

インダス文明は、インダス川中流域パンジャーブ地方のハラッパーと、下流域シンド地方のモヘンジョ・ダーロの二大都市のほか、シンド地方のチャヌフ・ダーロ、カッチ・グジャラート地方のスールコータダーおよびロータル、北部ラージャスターン地方のカーリーバンガンなど、いくつかの中小地方都市を擁していた。これらの都市が文明の構造にそれぞれどのような役割を果たしたかは不明であるが、なかでもモヘンジョ・ダーロとハラッパーが政治経済上の中枢をなしていたことに疑いはない。しかしロータルのように、国内の物資流通のみならず、クウェート沖のバーレーン島などを中継基地として、遠くメソポタミアとまで交易を行った港湾都市は、その役割も明らかである。ここでは長さ219メートル、幅37メートルもある大きな船溜(ふなだま)りが発掘された。またいずれの都市も、各都市人口に見合う以上の量を収納しうる穀物倉を備えており、一種の国庫か地方銀行のような役割を果たしていた。しかし、これらの余剰生産物が、広大なその版図内よりどのように集積されたかなど、当時の政治経済機構の様相は、かならずしも明らかではない。権力を象徴するような王宮や王墓、もしくは大神殿も、インダス文明ではまだ発見されていないからである。

 その反面インダス文明は、きわめて綿密に計算された都市計画性において際だっており、整然としたプランが見て取れる。すなわち概して都市は城塞(じょうさい)部と市街地に分けられ、城塞は市の西側に置かれることが多かった。その場合、城塞は高い基壇上に築かれて市街とは別に城壁で囲まれるか、市街地とともに市壁で囲まれ、隔壁でもって市街地からは隔てられていた。また墓地は市壁の外に置くのが普通であった。

 一方、市街地は、全域がほぼ東西南北に走る5、6本の大通りによって区画され、さらにそれぞれは、ほぼ直角に交差する中、小路によって碁盤目状にくぎられていた。密集して建つ家々は高い壁と小さな入口をもつが、中に入ると中庭があって、その周囲に小部屋が並び、また2階へも通じていた。中庭には井戸があることが多く、そこに炊事場や洗濯場などが併設されていた。各戸からの排水は、壁中の土管や、ときにはダストシュート状に傾斜した排水孔から汚水槽へ、さらに暗渠(あんきょ)となったれんが造りの下水道へと導かれた。大通りの本下水道にはマンホールも設けられ、定期的な清掃がなされたらしい。また街の角々には警備員用の小屋と思われる建物もあり、大通りには工芸職人の工房や店が軒を連ねていたが、市民の集う広場のようなものはなかった。

[小西正捷]

文明の起源

インダス文明がどのように興起したのかは、文明の構造同様、不明な点が多い。かつてはメソポタミアないしはイランからの影響が重視されたこともあったが、なんらかの影響が西方から及んだことは否定できないにせよ、インダス川流域そのものにおいて独自の文明への胎動があったことは確かであり、その点でコト・ディジ文化の展開が注目される。同文化の分布はシンド地方のコト・ディジを標準遺跡として南部一帯にみられるほか、ハラッパー遺跡下層やジャリールプルなどを経て、北はタキシラに近いサライコラーやジャングなどの諸遺跡にまで広がっていると考えられる。またそれとも関連があるが、やや異質な要素をももつ北部ラージャスターンのソティ文化も注目されるべきであろう。

 確かに、より西方のバルーチスターン山地においては、前3000年ごろより、イラン高地の諸文化の影響を強く受けた独特の諸文化が展開していた。ピシーン・クエタ、ゾブなどのやや北方の地域が比較的早くから開け、次いで南方のアムリ、ナール、トガウなどの文化が展開する。しかし前2500~前2400年ごろ、イラン高地の陸路による交易路が衰え、それにかわってマクラーン海岸沿いのクッリ文化が栄えた。この時期にはインダス文明はすでに成立しており、より西方の文明と、主として海路を経由して交渉をもっていた。したがって、インダス文明を形成する直接の文化的基盤は、やはりインダス平原部そのものにおいて備えられていたと考えられる。

[小西正捷]

文明の衰退と文化的継承

インダス文明がいかに衰退したかについても議論が多い。かつては『リグ・ベーダ』のような後世の宗教的賛歌の記述によって、インダス文明が、インドに進入してきたアーリア民族によって滅ぼされたかのような説も一部に唱えられたが、少なくとも考古学上それを支持する証拠はなにもなく、また前1500年ごろと考えられるアーリア民族の進入時には、すでに文明はそれより300~400年も前に、おそらくは内的要因による崩壊の兆しをみせていた。文明が衰退期を迎えるのは前1800年か、遅くも前1750年ごろであるが、その理由や様相は、地方によって大きく異なっていたと思われる。すなわち、その理由もけっして単一ではありえず、さまざまな原因が複雑に競合しあっていたであろう。たとえば、国家政体の弱体化、メソポタミアとの交易の途絶、自然破壊による乾燥化や塩害などに加えて、シンド地方などではマクラーン沿岸部の隆起と関連した溢水(いっすい)、またパンジャーブや北部ラージャスターンなどでは重要な交易路でもある河川の流路変更なども打撃を与え、やがて周縁部をも含めた文明の崩壊をみたのではないかと思われる。

 しかし東部パンジャーブなどでは、文明の遺産は少なくともハラッパー土器の技術に受け継がれ、この文化伝統は、アーリア民族がガンジス平原部にまで歩を進めて定着してのちの前1200年ごろまでも続いた。おそらくは技術面のみならず、社会、宗教、文化のさまざまな側面においても、インダス文明は後のインド亜大陸の文化展開にとっての大きな源流となった。それらはいまだにインド諸文化の底流、伏流の一部をなしている。

[小西正捷]

『M・ウィーラー著、曽野寿彦訳『インダス文明』(1966・みすず書房)』『M・ウィーラー著、小谷仲男訳『インダス文明の流れ』(1971・創元社)』『曽野寿彦・西川幸治著『死者の丘・涅槃の塔』(1970・新潮社)』『辛島昇・桑山正進・小西正捷・山崎元一著『インダス文明』(NHKブックス)』『小西正捷著「インダス文明とアーリヤ世界の背景」(『岩波講座 世界歴史3』所収・1970・岩波書店)』


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改訂新版 世界大百科事典 「インダス文明」の意味・わかりやすい解説

インダス文明 (インダスぶんめい)

インダス川流域を中心に前2300-前2000年ごろ最盛期をむかえたインドの古代文明。1920年ハラッパーがサハニD.R.Sahaniにより,ついでモヘンジョ・ダロがバネルジーR.D.Banerjiにより発見され,22-27年にマーシャルJ.Marshallが,27-31年にマッケーE.J.H.Mackayがモヘンジョ・ダロを,また33-34年にバッツM.S.Vatsがハラッパーを発掘した。

遺跡分布の最大限は,東はデリー付近,西はアラビア海沿岸のイラン国境付近,南はムンバイー(旧ボンベイ)の北200km,北はシムラ丘陵南端に及び,オクサス河岸にも1ヵ所ある。東西1600km,南北1400kmの範囲に約300の大小の遺跡がしられるが,都市数は少なく,最大のモヘンジョ・ダロやハラッパーでも1km四方以内である。遺跡はシンド地方,パンジャーブ・北ラージャスターン,グジャラートの3地方に集中,それぞれの地方に1ないし2の都市遺跡があり,その都市経済を支えていた多数の村落の遺跡がある。文明の基盤は,夏季のモンスーン後に起こるインダス水系の不安定な氾濫に依存した氾濫農耕(小麦生産)にあった。そのために動く可耕地と生産規模が,都市の小ささや少なさに反映し,壮大な王宮や王墓を欠くということにもなった。つまり単一の王権の出現を許さなかった社会経済上の制約が氾濫農耕の中にかくされているのであり,この点が,灌漑農耕にもとづいたシュメール文明と根本的に異なるところである。

 この農耕形態と再生増殖に対する祈願信仰とは密接に結びつき,樹神,動物神,川の女神などの信仰,水による潔斎や供犠などの祭儀,水と火を使った祭儀がおこなわれた。モヘンジョ・ダロやロータルにみられる大穀物倉は,都市へ運ばれる農産物の収蔵といった社会経済上の意義のほかに,このような信仰のセンターとして宗教上の意義もあり,都市において祭儀をとりおこなう祭司に都市運営の実権があったことが推測される。

都市が前2300年ごろのこの地域にすでに存在していたことは,編年の確立しているメソポタミア古代の地層で出土したインダス文明の遺物から判明する。当時すでに,メソポタミアとの間には海上交易が行われていた。ロータルやマクラーン沿岸の遺跡は,それを物語るものといわれる。しかしこの海上交易をインダス文明の主宰者たちが公式に統御して,直接にシュメールと交渉していたかどうかは不明であり,むしろオマーン湾を中継地とする中継貿易であった可能性が,バーレーン島の遺跡・遺物からみて考えられる。

 この都市時代は前1800年ごろまで続き,インダス河口地帯の隆起による異常氾濫や河川の流路変更などの自然条件,あるいは内在していた諸原因のため,都市機能が衰退し,グジャラートやパンジャーブなど,地方別に文化の様相が変化し,地方の村落文化へと解体した。この衰退期はグジャラートでは前1500年まで続く過程で,西インドの先史諸文化の発生を促し,パンジャーブでは徐々に北西方から移動してきたインド・アーリヤ語系の民族と接触し,前2千年紀後半にガンジス平原を開拓した彼らについに同化された。インダス文明という呼称は都市出現の準備段階からこの衰退期までを包括するが,都市出現前夜に関してはほとんどわかっていない。都市の基礎の下には,前3千年紀前半にすでに囲壁をもつ町邑が存在し,イラン南部との交流を示す文化が近年あきらかになったが,その土器はインダス文明都市時代の土器とは異質である。

ひとつの都市全体が計画設計されたことは,同時代に類例がない。東に市街地,西に城塞をおき,両者を截然と区分した。ともに南北に長い長方形か平行四辺形の平面をもつ(ロータルを除く)。カーリーバンガンではいずれにも囲壁がある。街路は直線で,ほぼ直交し,道路幅は1.8mを単位とし,その倍数に従っている。市門は必ずしも目抜通りには開かない。住居は2階建ても多く,2~数十室。中庭つき邸宅もあるが,例外なく入口は小路に開いている。モヘンジョ・ダロは住居の一室に井戸を設け,水使用の配慮をした床構造の室から大通りへ排水溝が完備する。城塞は人工築壇で,その上にモヘンジョ・ダロではプール状沐浴場を中庭にもつ建物があり,穀物倉や大建築がとりかこむ。カーリーバンガンでは邸宅区である北区と〈水と火の祭儀場〉である南区に分かれる。ロータルの城塞だけは市壁南東隅にあり,沐浴用室列と穀物倉をもつ。市街地より西に寄って一定の場所を墓地としていた。墓は長方形または楕円形の土壙で,多くは棺槨なしに直接頭を北に仰臥伸展ないし側臥屈葬とする。まれに合葬もある。副葬品は十数個の土器を頭付近に置く。装身具をつけ,銅鏡を置き,紫檀棺にヒマラヤ杉材の蓋をした女性墓は特異である。

 都市時代の特色として道幅や煉瓦の規格性をはじめ,度量衡の統一がある。煉瓦の縦横厚の比は4:2:1に統一されている。モヘンジョ・ダロ,ハラッパーなどでは城塞の築壇や城壁の芯以外はみな焼煉瓦を使った。商業活動で重要な秤のおもりは石製で,二進法と十進法が併用されていた。

普通2~5cm平方の凍石製印章は,メソポタミアの回転して押印する円筒印章と異なり,表にインダス文字と動物などを陰刻し,裏にこぶ状のつまみをもっている。文字は印章のほかにも刻まれ,基本字数400と簡単な文法がしられ,ドラビダ語の特徴を具備する。しかし,短文(平均5字)であること,既知の言語との2語併記がないため未解読である。動物は一角獣,短角牡牛,コブウシ,水牛,サイ,カモシカ,角付きの象,牛角付き人物など,角に意味があったらしい。神像(獣主,樹神)や祭儀場面もみられる。石,青銅,テラコッタの彫像には,人物(女性像,神像,祭司),動物,荷車があり,みな祭儀に関係している。

 土器は黄灰色~桃色を呈する素焼が一般的であるが,濃い赤色のスリップの上に黒彩を施した彩文土器に特色がある。石器はチャート製の剝片石器が圧倒的に多く,青銅または銅の器物はほとんどみな鍛造である。とくに武器・利器類は劣弱で,幾世代にもわたって改良されたあとがみられない。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「インダス文明」の意味・わかりやすい解説

インダス文明
インダスぶんめい
Indus civilization

インダス川流域を中心に栄えたインド亜大陸最古の文明。ハラッパー文化とも呼ばれる。 1921年パンジャブ地方のハラッパー (→ハラッパー遺跡 ) で,続いて 22年シンド地方のインダス川に近いモヘンジョ・ダロ (→モヘンジョ・ダロ遺跡 ) で遺跡が発見された (現在はどちらもパキスタン領内) 。さらに,カラチの西 480kmのアラビア海岸に近いソトカーゲン・ドールと,北東 1600kmのシムラ丘陵の裾野のローパルで同文明の遺跡が発見された。その後この文明は南端は西海岸を下ってカラチの南東 800kmのカンベイ湾,東はデリーの北方 50kmのジャムナ盆地に達していることが判明した。こうしてインダス文明は世界最古の三大文明中,先行するメソポタミア,エジプト両文明をはるかにしのぐ規模であることが立証された。
インダス文明はハラッパーとモヘンジョ・ダロ,そしてかなり小さなものも含め 100以上の町や村から成る。二大都市はいずれも周囲約 5kmで,その規模の大きさから中央集権制であったこと,インド史上にいくたびか現れる並立二大国家または2つの都市をもつ一大帝国であったことが推測される。繰返し大洪水に見舞われた土地柄から,ハラッパーがモヘンジョ・ダロの後継都市であったとも考えられる。カティアワール以南の遺跡は主要遺跡より年代が新しく,主要遺跡は前 2500年から前 1700年のものであるが,南部の遺跡は前 1000年代後半まで続いている。インダス文明は文字を用い,250から 500の文字は一部の解読が試みられ,ドラビダ語と推測されている。もともとは先住民や近隣の村々が集団化し発展したものらしく,メソポタミアにならい灌漑農業を営み,肥沃なインダス川流域の恵みを受け,収穫にもたけ,土地を肥沃にすると同時に破壊する毎年の大洪水にも十分対処していたとみられる。平野部に安定した基盤を築くと,新興文明は豊かになり人口がふえ,大河に沿って発展の途についた。農業を中心に補足的に若干の貿易が行われていたらしい。コムギや六条オオムギが栽培され,エンドウ,アブラナ,ゴマ,わずかにナツメヤシの種も発見されている。世界最古の綿花が栽培された形跡も知られている。イヌ,ネコ,コブウシ,短角牛,家禽などの家畜に加え,ブタ,ラクダ,野牛なども飼育されていたようである。ゾウも飼われていたらしく,象牙が自在に使われている。扇状沖積地では入手不可能な鉱物類は,ときにははるか遠地よりもたらされた。金は南インドやアフガニスタンから,銀や銅はアフガニスタンや北西インド (現在のラージャスターン州) から,ラピス・ラズリはアフガニスタンから,トルコ石はイランから,翡翠 (ひすい) に似たフクサイトはインド南部から輸入された。インダス文明で最も知られる加工品は小型の印章で,主としてステアタイトでつくられた独特のデザイン,技術のものが多数残っている。ゾウ,トラ,サイ,カモシカなどの写実的なものから幻想的な合成動物のようなものまで多種の動物が描かれ,ときに人物像も含まれていた。石彫も,おもに人または神を表わす小型の像が数体発見されている。動物や人をかたどった小さな土偶は,おびただしい数が発掘されている。
この文明が,いついかなる理由で幕を閉じたのかについては解明されていない。規模の大きさからみても,一斉に終局を迎えたとは考えられない。モヘンジョ・ダロの劇的かつ急激な終焉のみが知られている。この都市は前 1000年代なかば,通過した騎馬民族に一掃され,死体の散乱するままに放置された。推測の域を出ないが,『リグ・ベーダ』にアーリア人の戦いの神インドラが先住民の「城壁に囲まれた都市」もしくは「砦」を攻撃した記述があることから,襲撃者の正体はその頃インダス地方に侵入してきたアーリア人ではなかったかと思われる。ただ,モヘンジョ・ダロは当時,大洪水に1度ならず襲われ,家屋はスラム化しており,すでに崩壊寸前の状態であったことは明らかである。一方,カティアワール以南の状況はまったく異なっており,この地では,後期インダス文明から銅器文明へ文化が継承されたと考えられる。この文明は前 1700年からインド中西部を代表するものとなり,前 1000年頃インドに生れ発展することとなった鉄器文明へ,インダス文明の名残りを伝えるかけ橋となった。

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百科事典マイペディア 「インダス文明」の意味・わかりやすい解説

インダス文明【インダスぶんめい】

前3000年から前1500年ころ,インダス川流域に興った古代都市文明。ハラッパーモヘンジョ・ダロなどの遺跡によって代表される。都市は壮大な都市計画によって作られ,外部は城壁をめぐらし,排水施設をもった道路の両側には煉瓦造の家屋が並び,公衆浴場や市場・倉庫なども設けられていた。度量衡が統一され,よく統制された市民社会であったらしい。小麦,大麦などを中心とする農耕と,牛,水牛,羊などの牧畜に基づく都市文明で,土器の製作に長じ,銅,青銅の利器を用いた。滑石製の印章があり,動物の文様とともにインダス文字がみられるが,解読されていない。人種については諸説あるが,一般にはドラビダ系らしいといわれている。オリエント諸文明と共通の要素をもつが,宗教的権威をもった王権はなく,市民社会が展開されていたところに相違がある。前2000年ころインダス川の氾濫(はんらん)によって埋没し,さらにアーリヤ人の侵入によって完全に消滅した。
→関連項目シアルクシンド[州]チャンフー・ダロパキスタンパンジャーブ南アジア

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「インダス文明」の解説

インダス文明(インダスぶんめい)

主としてインダス川流域を中心に,前2300~前2000年頃に最盛期を迎えたインドの古代都市文明。主要な都市遺跡としてモエンジョ・ダーロハラッパー,カーリーバンガン,ロータル,さらに近年発掘されたドーラヴィーラなどがある。これらは城塞(じょうさい)と市街地を配した計画都市であり,城壁で囲まれ,整然とした直交街路が配され,排水溝が完備されていた。度量衡も文明圏全域で統一されていた。しかし王宮,王墓のような遺構は発見されていない。文字は使用されていたが(インダス文字),未解読である。この文明の農業的基盤はインダス川の氾濫を利用した小麦,大麦の冬期穀作であった。また河川ネットワークによって,都市と農村および都市間の流通が発達していた。工芸技術が非常に高く,とりわけ紅玉髄(こうぎょくずい)製品などは,海路によってバハレーンなどペルシア湾内諸都市を中継点として,メソポタミア地方に盛んに輸出されていた。このような西方との交易も,この都市文明の繁栄の基盤であった。しかし前1800年頃都市が崩壊ないし衰退し,文明圏の統制力や文化的画一性も弛緩し,地方ごとの文化が形成されていった。

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旺文社世界史事典 三訂版 「インダス文明」の解説

インダス文明
インダスぶんめい

前2500年から約1000年間栄えたインダス川流域に発達した古代文明
1922年に発掘されて判明したもので,中心は下流域のモヘンジョ−ダロと中流のパンジャーブ地方のハラッパー。都市計画にもとづいて建てられた世界最初の都市遺跡で,建築物は焼レンガを用い,排水設備も整い,公共建築物も存在した。青銅器を作り,木綿織物を着用,角型印章を使った。印章に記されている絵文字(インダス文字)は未解読。この文明を生みだしたのは先住民のドラヴィダ人と考えられているが,不明な点もある。滅亡に関しては,従来はアーリア人の侵入による説が唱えられていたが,現在では河川の氾濫や流路の変更などの自然状況の変化と,文明の統制力の衰退による人為的衰退が合わさったものとする説に変わっている。

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世界大百科事典(旧版)内のインダス文明の言及

【インド】より

…その上に,西北方から侵入してきたコーカソイド型の人種がいくつもの波となって重なり広がっていた。インダス文明(前2300‐前1800)を形成した人びとの中に多数のこの型の人種が含まれている。また,インド・アーリヤ族(前1500‐前1200ころに侵入)はこの型の別の種族であった。…

【インド美術】より

…一方,中世後期に普及したイスラムは,インド固有の3宗教のそれとは異質な建築中心の美術を各地にのこしている(図)。 インド美術の歴史は,前2000年を中心に栄えたインダス文明に始まる。しかしその文明の崩壊から再び耐久材を用いた建築が出現する前6世紀ごろまでの1000年余りは資料的に空白である。…

【治水】より

…【米田 賢次郎】
【南アジア】
 南アジアは典型的なモンスーン気候に属し,6~7月の南西モンスーンの到来とともに雨季にはいり,河川も増水していく。古代インダス文明も雨季のインダス川の増水と氾濫を利用した溢流灌漑に農業的基礎をおいていた。秋口になって洪水がひくとともにコムギを播種した点は,エジプトやメソポタミアの古代文明の場合と類似する。…

【ドラビダ】より

…もっとも,フューラー・ハイメンドルフChristoph von Fürer‐Haimendorfのように,巨石文化が北インドにはほとんど存在せず,主として南インドに残されていることから,地中海地方から直接南インドへ海路によって渡来したのではないかとする説もある。 考古学,言語学の最近の研究成果によって,インダス文字がドラビダ系言語であることはほぼ確定し,また,インダス文明の担い手もドラビダ民族ではないかと推論されている。インド・アーリヤ民族最古の文献といわれる《リグ・ベーダ》にはドラビダ諸語からの借用が多くみられ,前8世紀以前にインド・アーリヤ文化に対するドラビダ文化の影響があったと考えられる。…

【パキスタン】より

…【清水 学】
【美術】
 インド亜大陸の北西部のパキスタンの美術は,亜大陸の他の地域のそれと不可分の関係にある一方,内陸アジアから異民族が絶えず流入し異質の文化が導入されたため他の地域と趣を異にする面もある。その美術は先史時代のインダス文明,古代のガンダーラ仏教美術,ムガル帝国時代のイスラム美術に代表される。インダス文明はインダス川流域を中心に前2350‐前1700年ころに栄えた文明で,モヘンジョ・ダロとハラッパーとの二つの都市遺跡がことに有名である。…

【ハラッパー】より

…パキスタンのパンジャーブ州ムルターン北東約140kmにあるインダス文明都市期を代表する都市遺跡。ラービー涸川南岸に位置する。…

※「インダス文明」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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