インダス文明(読み)インダスブンメイ

デジタル大辞泉 「インダス文明」の意味・読み・例文・類語

インダス‐ぶんめい【インダス文明】

前3000年から前1500年ごろにかけて、インダス川流域に栄えた文明アーリア人のインド侵入以前のもので、金石併用の文化を持ち、公共建築などを完備した高度な計画都市を建設した。モヘンジョダロハラッパーなどに遺跡が残る。世界最古の文明の一。→四大文明

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精選版 日本国語大辞典 「インダス文明」の意味・読み・例文・類語

インダス‐ぶんめい【インダス文明】

  1. 〘 名詞 〙 ( インダスはIndus ) 紀元前三〇〇〇~前一五〇〇年頃、インダス川流域に栄えた世界最古の文明の一つ。モヘンジョダロ、ハラッパーなど、総計一〇〇以上の遺跡が現存する。

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改訂新版 世界大百科事典 「インダス文明」の意味・わかりやすい解説

インダス文明 (インダスぶんめい)

インダス川流域を中心に前2300-前2000年ごろ最盛期をむかえたインドの古代文明。1920年ハラッパーがサハニD.R.Sahaniにより,ついでモヘンジョ・ダロがバネルジーR.D.Banerjiにより発見され,22-27年にマーシャルJ.Marshallが,27-31年にマッケーE.J.H.Mackayがモヘンジョ・ダロを,また33-34年にバッツM.S.Vatsがハラッパーを発掘した。

遺跡分布の最大限は,東はデリー付近,西はアラビア海沿岸のイラン国境付近,南はムンバイー(旧ボンベイ)の北200km,北はシムラ丘陵南端に及び,オクサス河岸にも1ヵ所ある。東西1600km,南北1400kmの範囲に約300の大小の遺跡がしられるが,都市数は少なく,最大のモヘンジョ・ダロやハラッパーでも1km四方以内である。遺跡はシンド地方,パンジャーブ・北ラージャスターン,グジャラートの3地方に集中,それぞれの地方に1ないし2の都市遺跡があり,その都市経済を支えていた多数の村落の遺跡がある。文明の基盤は,夏季のモンスーン後に起こるインダス水系の不安定な氾濫に依存した氾濫農耕(小麦生産)にあった。そのために動く可耕地と生産規模が,都市の小ささや少なさに反映し,壮大な王宮や王墓を欠くということにもなった。つまり単一の王権の出現を許さなかった社会経済上の制約が氾濫農耕の中にかくされているのであり,この点が,灌漑農耕にもとづいたシュメール文明と根本的に異なるところである。

 この農耕形態と再生増殖に対する祈願信仰とは密接に結びつき,樹神,動物神,川の女神などの信仰,水による潔斎や供犠などの祭儀,水と火を使った祭儀がおこなわれた。モヘンジョ・ダロやロータルにみられる大穀物倉は,都市へ運ばれる農産物の収蔵といった社会経済上の意義のほかに,このような信仰のセンターとして宗教上の意義もあり,都市において祭儀をとりおこなう祭司に都市運営の実権があったことが推測される。

都市が前2300年ごろのこの地域にすでに存在していたことは,編年の確立しているメソポタミア古代の地層で出土したインダス文明の遺物から判明する。当時すでに,メソポタミアとの間には海上交易が行われていた。ロータルやマクラーン沿岸の遺跡は,それを物語るものといわれる。しかしこの海上交易をインダス文明の主宰者たちが公式に統御して,直接にシュメールと交渉していたかどうかは不明であり,むしろオマーン湾を中継地とする中継貿易であった可能性が,バーレーン島の遺跡・遺物からみて考えられる。

 この都市時代は前1800年ごろまで続き,インダス河口地帯の隆起による異常氾濫や河川の流路変更などの自然条件,あるいは内在していた諸原因のため,都市機能が衰退し,グジャラートやパンジャーブなど,地方別に文化の様相が変化し,地方の村落文化へと解体した。この衰退期はグジャラートでは前1500年まで続く過程で,西インドの先史諸文化の発生を促し,パンジャーブでは徐々に北西方から移動してきたインド・アーリヤ語系の民族と接触し,前2千年紀後半にガンジス平原を開拓した彼らについに同化された。インダス文明という呼称は都市出現の準備段階からこの衰退期までを包括するが,都市出現前夜に関してはほとんどわかっていない。都市の基礎の下には,前3千年紀前半にすでに囲壁をもつ町邑が存在し,イラン南部との交流を示す文化が近年あきらかになったが,その土器はインダス文明都市時代の土器とは異質である。

ひとつの都市全体が計画設計されたことは,同時代に類例がない。東に市街地,西に城塞をおき,両者を截然と区分した。ともに南北に長い長方形か平行四辺形の平面をもつ(ロータルを除く)。カーリーバンガンではいずれにも囲壁がある。街路は直線で,ほぼ直交し,道路幅は1.8mを単位とし,その倍数に従っている。市門は必ずしも目抜通りには開かない。住居は2階建ても多く,2~数十室。中庭つき邸宅もあるが,例外なく入口は小路に開いている。モヘンジョ・ダロは住居の一室に井戸を設け,水使用の配慮をした床構造の室から大通り排水溝が完備する。城塞は人工築壇で,その上にモヘンジョ・ダロではプール状沐浴場を中庭にもつ建物があり,穀物倉や大建築がとりかこむ。カーリーバンガンでは邸宅区である北区と〈水と火の祭儀場〉である南区に分かれる。ロータルの城塞だけは市壁南東隅にあり,沐浴用室列と穀物倉をもつ。市街地より西に寄って一定の場所を墓地としていた。墓は長方形または楕円形の土壙で,多くは棺槨なしに直接頭を北に仰臥伸展ないし側臥屈葬とする。まれに合葬もある。副葬品は十数個の土器を頭付近に置く。装身具をつけ,銅鏡を置き,紫檀棺にヒマラヤ杉材の蓋をした女性墓は特異である。

 都市時代の特色として道幅や煉瓦の規格性をはじめ,度量衡の統一がある。煉瓦の縦横厚の比は4:2:1に統一されている。モヘンジョ・ダロ,ハラッパーなどでは城塞の築壇や城壁の芯以外はみな焼煉瓦を使った。商業活動で重要な秤のおもりは石製で,二進法と十進法が併用されていた。

普通2~5cm平方の凍石製印章は,メソポタミアの回転して押印する円筒印章と異なり,表にインダス文字と動物などを陰刻し,裏にこぶ状のつまみをもっている。文字は印章のほかにも刻まれ,基本字数400と簡単な文法がしられ,ドラビダ語の特徴を具備する。しかし,短文(平均5字)であること,既知の言語との2語併記がないため未解読である。動物は一角獣,短角牡牛,コブウシ,水牛,サイ,カモシカ,角付きの象,牛角付き人物など,角に意味があったらしい。神像(獣主,樹神)や祭儀場面もみられる。石,青銅,テラコッタ彫像には,人物(女性像,神像,祭司),動物,荷車があり,みな祭儀に関係している。

 土器は黄灰色~桃色を呈する素焼が一般的であるが,濃い赤色のスリップの上に黒彩を施した彩文土器に特色がある。石器はチャート製の剝片石器が圧倒的に多く,青銅または銅の器物はほとんどみな鍛造である。とくに武器・利器類は劣弱で,幾世代にもわたって改良されたあとがみられない。
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百科事典マイペディア 「インダス文明」の意味・わかりやすい解説

インダス文明【インダスぶんめい】

前3000年から前1500年ころ,インダス川流域に興った古代都市文明。ハラッパーモヘンジョ・ダロなどの遺跡によって代表される。都市は壮大な都市計画によって作られ,外部は城壁をめぐらし,排水施設をもった道路の両側には煉瓦造の家屋が並び,公衆浴場や市場・倉庫なども設けられていた。度量衡が統一され,よく統制された市民社会であったらしい。小麦,大麦などを中心とする農耕と,牛,水牛,羊などの牧畜に基づく都市文明で,土器の製作に長じ,銅,青銅の利器を用いた。滑石製の印章があり,動物の文様とともにインダス文字がみられるが,解読されていない。人種については諸説あるが,一般にはドラビダ系らしいといわれている。オリエント諸文明と共通の要素をもつが,宗教的権威をもった王権はなく,市民社会が展開されていたところに相違がある。前2000年ころインダス川の氾濫(はんらん)によって埋没し,さらにアーリヤ人の侵入によって完全に消滅した。
→関連項目シアルクシンド[州]チャンフー・ダロパキスタンパンジャーブ南アジア

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「インダス文明」の解説

インダス文明(インダスぶんめい)

主としてインダス川流域を中心に,前2300~前2000年頃に最盛期を迎えたインドの古代都市文明。主要な都市遺跡としてモエンジョ・ダーロハラッパー,カーリーバンガン,ロータル,さらに近年発掘されたドーラヴィーラなどがある。これらは城塞(じょうさい)と市街地を配した計画都市であり,城壁で囲まれ,整然とした直交街路が配され,排水溝が完備されていた。度量衡も文明圏全域で統一されていた。しかし王宮,王墓のような遺構は発見されていない。文字は使用されていたが(インダス文字),未解読である。この文明の農業的基盤はインダス川の氾濫を利用した小麦,大麦の冬期穀作であった。また河川ネットワークによって,都市と農村および都市間の流通が発達していた。工芸技術が非常に高く,とりわけ紅玉髄(こうぎょくずい)製品などは,海路によってバハレーンなどペルシア湾内諸都市を中継点として,メソポタミア地方に盛んに輸出されていた。このような西方との交易も,この都市文明の繁栄の基盤であった。しかし前1800年頃都市が崩壊ないし衰退し,文明圏の統制力や文化的画一性も弛緩し,地方ごとの文化が形成されていった。

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旺文社世界史事典 三訂版 「インダス文明」の解説

インダス文明
インダスぶんめい

前2500年から約1000年間栄えたインダス川流域に発達した古代文明
1922年に発掘されて判明したもので,中心は下流域のモヘンジョ−ダロと中流のパンジャーブ地方のハラッパー。都市計画にもとづいて建てられた世界最初の都市遺跡で,建築物は焼レンガを用い,排水設備も整い,公共建築物も存在した。青銅器を作り,木綿織物を着用,角型印章を使った。印章に記されている絵文字(インダス文字)は未解読。この文明を生みだしたのは先住民のドラヴィダ人と考えられているが,不明な点もある。滅亡に関しては,従来はアーリア人の侵入による説が唱えられていたが,現在では河川の氾濫や流路の変更などの自然状況の変化と,文明の統制力の衰退による人為的衰退が合わさったものとする説に変わっている。

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世界大百科事典(旧版)内のインダス文明の言及

【インド】より

…その上に,西北方から侵入してきたコーカソイド型の人種がいくつもの波となって重なり広がっていた。インダス文明(前2300‐前1800)を形成した人びとの中に多数のこの型の人種が含まれている。また,インド・アーリヤ族(前1500‐前1200ころに侵入)はこの型の別の種族であった。…

【インド美術】より

…一方,中世後期に普及したイスラムは,インド固有の3宗教のそれとは異質な建築中心の美術を各地にのこしている(図)。 インド美術の歴史は,前2000年を中心に栄えたインダス文明に始まる。しかしその文明の崩壊から再び耐久材を用いた建築が出現する前6世紀ごろまでの1000年余りは資料的に空白である。…

【治水】より

…【米田 賢次郎】
【南アジア】
 南アジアは典型的なモンスーン気候に属し,6~7月の南西モンスーンの到来とともに雨季にはいり,河川も増水していく。古代インダス文明も雨季のインダス川の増水と氾濫を利用した溢流灌漑に農業的基礎をおいていた。秋口になって洪水がひくとともにコムギを播種した点は,エジプトやメソポタミアの古代文明の場合と類似する。…

【ドラビダ】より

…もっとも,フューラー・ハイメンドルフChristoph von Fürer‐Haimendorfのように,巨石文化が北インドにはほとんど存在せず,主として南インドに残されていることから,地中海地方から直接南インドへ海路によって渡来したのではないかとする説もある。 考古学,言語学の最近の研究成果によって,インダス文字がドラビダ系言語であることはほぼ確定し,また,インダス文明の担い手もドラビダ民族ではないかと推論されている。インド・アーリヤ民族最古の文献といわれる《リグ・ベーダ》にはドラビダ諸語からの借用が多くみられ,前8世紀以前にインド・アーリヤ文化に対するドラビダ文化の影響があったと考えられる。…

【パキスタン】より

…【清水 学】
【美術】
 インド亜大陸の北西部のパキスタンの美術は,亜大陸の他の地域のそれと不可分の関係にある一方,内陸アジアから異民族が絶えず流入し異質の文化が導入されたため他の地域と趣を異にする面もある。その美術は先史時代のインダス文明,古代のガンダーラ仏教美術,ムガル帝国時代のイスラム美術に代表される。インダス文明はインダス川流域を中心に前2350‐前1700年ころに栄えた文明で,モヘンジョ・ダロとハラッパーとの二つの都市遺跡がことに有名である。…

【ハラッパー】より

…パキスタンのパンジャーブ州ムルターン北東約140kmにあるインダス文明都市期を代表する都市遺跡。ラービー涸川南岸に位置する。…

※「インダス文明」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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