改訂新版 世界大百科事典 「インドネシア共産党」の意味・わかりやすい解説
インドネシア共産党 (インドネシアきょうさんとう)
Partai Komunis Indonesia
アジアの共産党では最も早く,1920年に創立された。20年代前半は労働運動を軸に活動し,独立を望む民衆に影響力を与え始めた。そのためオランダ植民地政府はセマウン,ダルソノ,タン・マラカら党幹部に対し,国外追放などの弾圧を加えた。その後残された組織は武装革命への道を求め,26年11月から27年1月にかけてジャワ,スマトラ各地で蜂起したが,たちまち鎮圧され,党は非合法化された。45年8月17日,スカルノらによってインドネシア共和国の独立宣言が公にされると,オランダは再植民地化を狙ったが,民衆は独立を守る闘いをゲリラ戦によって行い,これに抵抗した。戦闘は共産党を蘇生させたが,同時にこの時期,国内にはオランダとの妥協を図る勢力も現れ,政治は混迷に陥った。48年9月ジャワのマディウン市でムソらが共産党政権樹立を打ち出した時(マディウン事件),スカルノら共和国首脳はそれを認めず,内戦状態の中でムソとタン・マラカは死んだ。
50年からの実質的独立時代の開幕はまた諸政党分立の始まりでもあったが,その中で労働者,農民,青年各組織の設立に成功したアイディットら若い世代が指導権を握った共産党は,ナサコムNASACOM(民族主義Nasional,宗教=イスラム勢力Agama,共産主義Komunis)体制とよばれる統一戦線の一翼を担い,64年には党員数300万と称し,軍部とともにスカルノの政権をささえる強力な位置にまでのし上がった。当時のインドネシアは,政治的には独立を一応達成したものの,経済の面では外国の援助に依存し,一般大衆の生活水準は低く抑えられていた。支持民の要望を受けて,農地改革と外国所有財産の国有化を強く要求する共産党の政策は,実権派として国家財産を管理してきた軍部や富裕地主などと衝突することになった。65年以降,九月三〇日事件を口実に,憑かれたごとき反共の嵐が全土を吹き荒れて,共産党とその関連組織は排除された。植民地時代と同様に,共産党はいまも非合法化されている。
→インドネシア[歴史]
執筆者:森 弘之
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報