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ウィーン体制 ウィーンたいせいVienna System

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

ウィーン体制
ウィーンたいせい
Vienna System

ウィーン会議の決定に基づいて組立てられた,ナポレオン戦争後のヨーロッパの国際秩序。ウィーン会議をリードした諸大国間の四国同盟 (のちフランスを加えて5国) や神聖同盟を骨格とし,自由主義や民族主義を抑圧する保守反動体制であり,メッテルニヒがその指導者であった。 1848年の三月革命で崩壊。

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百科事典マイペディアの解説

ウィーン体制【ウィーンたいせい】

1814年―1815年のウィーン会議メッテルニヒに指導されたヨーロッパの政治体制。神聖同盟四国同盟を支柱として自由主義・民族主義運動を弾圧しつつヨーロッパの現状維持を図った国際的保守反動体制である。
→関連項目カルボナリ党正統主義二月革命(フランス)ブオナローティリソルジメントリバプール伯

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世界大百科事典 第2版の解説

ウィーンたいせい【ウィーン体制】

1814‐15年のウィーン会議で,イギリス,フランス,ロシア,プロイセン,オーストリアの五大国が中心となってヨーロッパの政治的再編がはかられたが,その後ヨーロッパ諸国の勢力均衡を利用しつつ,オーストリア宰相メッテルニヒが中心となって推し進めた,48年革命まで続く政治体制をいう(ドイツ史ではとくに,1848年の三月革命以前のこの時代を三月前期Vormärzとよぶ)。その政治的原理は復古的保守主義であった。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ウィーン体制
うぃーんたいせい

ナポレオン戦争の戦後処理を通じてつくり出された支配体制。オーストリアの宰相メッテルニヒが主導したことから、欧米ではメッテルニヒ体制Metternich Systemとよぶ。ナポレオン戦争に勝利したヨーロッパの君主、貴族などの復古勢力は、フランス革命を端緒とする革命の大波の復活を抑え込み、ウィーン会議が生んだ国際秩序を維持するためにこの体制を必要としたが、そのために依拠したのが神聖同盟と四国同盟(のちに五国同盟)という2本の柱であった。ウィーン体制のイデオロギー面を担う前者に対して、後者は諸大国間の軍事的、外交的協議機構としての役割を果たした。四(五)大国の指導者は、初め定期的に会合し、スペイン、ナポリで発生した自由主義者の反乱を鎮圧したが、まもなく、神聖同盟の原理のもとに結集する東欧三国(ロシア、オーストリア、プロイセン)と、革命干渉を好まないイギリス、フランスに立場が分裂していった。五大国の利害対立に利せられてギリシアは独立を遂げ、また先進資本主義国としての利益を追求するイギリスの外交によって、中南米諸国はウィーン体制の側からの干渉を免れた。1830年にフランスで七月革命が起こると、ウィーン体制はさらに大きく分裂するようになり、フランス、イギリスが真摯(しんし)協商を形成して自由主義の旗印を掲げると、東欧三国は三国秘密協商を結成して神聖同盟の再興を図るありさまであったが、各地の反乱は「一八四八年の革命」となって噴出し、ウィーン体制は崩壊した。[百瀬 宏]

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世界大百科事典内のウィーン体制の言及

【反革命】より

…ロシア革命にみられるように,国内の旧体制反革命勢力が革命の国外波及を恐れる外国勢力と結びつき,外国軍による干渉戦争すら引き起こすこともある。 次に,既存体制が革命を予防する場合の体制武装化による反革命の例では,まず1814年のウィーン会議後,メッテルニヒによって組織された神聖同盟体制(ウィーン体制)がある。これはナポレオン失脚後,革命的風潮の漂うヨーロッパの国際秩序を再構築する際に,ロシア皇帝アレクサンドル1世の提案により国際的な反革命軍事体制づくりを行ったものである。…

【48年革命】より

…フランス革命と48年革命の間の時期を〈二重革命の時代〉(ホブズボーム)と呼ぶように,この時期は資本主義的経済体制の発展を象徴するイギリス,フランスの産業革命と依然として大きな影響力を持っていたフランス革命の理念によって規定されていた。政治的にはフランス革命の理念の展開を抑えるウィーン体制が存在していたが,革命の理念はそれを超えてさまざまな展開を示し体制をその基盤から揺り動かした。スペインの〈リエゴの進軍〉(1820),ギリシア解放戦争(1821),フランス七月革命(1830),ポーランドの蜂起(1830),リヨン労働者の蜂起(1830,34),イギリスのチャーチスト運動の高揚(1839,42,48),シュレジエン織工一揆(1844)と続く運動はしだいにフランス革命の理念さえも超えた意味内容を持ったものになっていった。…

【リソルジメント】より

…これ以降,南イタリア(メッツォジョルノ)の農民にとって土地問題は最大の争点となり,リソルジメントの過程に独自の介入を示すことになる。
[カルボナリから青年イタリアへ]
 ナポレオン体制が崩れたあと1815年以降のウィーン体制のもとで,イタリアには次の諸国家が分立する。サボイア朝のサルデーニャ王国,オーストリア支配下のロンバルド・ベネト王国,ハプスブルク家のトスカナ大公国,ローマ教皇の支配する教会国家,スペイン系ブルボン朝の両シチリア王国,それにパルマ公国,モデナ公国,ルッカ公国などで,全体としてオーストリアの強い影響下にあった。…

※「ウィーン体制」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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