アメリカのブルース・ギタリスト。「モダン・ブルース・ギターの父」と称され、その影響力は絶大である。
テキサス州出身。本名はアーロン・ティボー・ウォーカーAaron Thibeaux Walkerだが、テキサス州は牛肉の最大の産地でもあるため、ステーキにちなんでTボーン・ウォーカーとよばれるようになった。義父のマーコ・ワシントンMarco Washingtonは、ダラス・ストリング・バンドの一員であらゆる楽器を演奏した。ウォーカーは幼時にダラスというテキサス最大のブルース都市に移り、急激に発展したブルースの現場で幼いころから演奏家としてもまれながら育つ。
1920年ごろにはブラインド・レモン・ジェファソンのリード・ボーイ(盲人の先導役)を務め、1923年ごろからギターの演奏を試みるようになり、メディシン・ショー(音楽のみならず、寸劇や手品なども盛り込んだ、一種の大衆娯楽ショー。薬売りの余興から始まった)に出演したり、アイダ・コックスIda Cox(1896―1967)のグループの一員として活動。1929年にはオーク・クリフ・Tボーン名義でカントリー・ブルース調の曲で初録音を行う。1933年ごろにはジャズ・ギタリスト、チャーリー・クリスチャンとも共演しており、その後彼らによって展開されたジャズとブルースの革新のための前奏曲が奏でられていたことになる。1934年にはロサンゼルスに移住。レス・ハイトLes Hite(1903―1962)の楽団で活動しながら、1942年にキャピトルから発表した「ミーン・オールド・ワールド」でエレクトリック・ギター奏法の魅力を全開させ、ブルース界に衝撃を与えた。ジャズのスウィング感をもちつつ、より高度な奏法テクニック、洗練された味わい、さらには優れたリズム感による曲展開を見せるウォーカーの演奏は、ギターがブルースの中心的楽器となることへの道を拓くものだった。
その後オールド・スウィング・マスター、ブラック&ホワイトといったレーベルに録音を続けたが、1947年の「コール・イット・ストーミー・マンデイ、バット・チューズデイ・イズ・ジャスト・アズ・バッド」は、その後「ストーミー・マンデイ」とタイトルを変え、ブルースでもっとも人気のあるスタンダード曲として定着していく。この時代の作品を集めた『モダン・ブルース・ギターの父』(1974)は、モダン・ブルースを代表するアルバムとしてゆるぎない評価を得た。またウォーカーはステージではダンサー、コメディアンもこなし、しばしばギターを背中にまわして弾いたり、ステージはエンターテインメント性に富んだものだった。
1950年以降インペリアル・レーベルに移り、よりリズム・アンド・ブルース的側面を強くした「コールド・コールド・フィーリング」、妻に捧げた「バイダ・リー」のほか「ストローリン・ウィズ・ボーン」「アイ・ゲット・ソー・ウィーリー」など数えきれない名作を発表した。これらの曲によりクラレンス・“ゲートマウス”・ブラウンClarence“Gatemouth”Brown(1924―2005)、ピー・ウィー・クレイトンPee Wee Crayton (1914―1985)、ジョニー・ギター・ワトソンJohnny Guitar Watson(1935―1996)といったテキサス出身のブルースマンがウォーカーに強烈に感化されたことは無論だが、第二次世界大戦後最大のブルース・スター、B・B・キングがウォーカーのスタイルを下敷きにしたことからとくにウォーカーの歴史的評価が固まった。
その後も1955~1957年録音の『T・ボーン・ブルース』や1968年発表の『ファンキー・タウン』Funky Town等、秀作を残しているが、ブルースにおける歴史的な革新への評価の割には、いま一つ深く聞かれていないきらいがある。B・B・キングやマディ・ウォーターズのように、ロック・ミュージシャンと直接的接点をもたなかったから、ということも一因である。ロサンゼルスで肺炎を悪化させ死亡。その葬儀は、同市のブラック・コミュニティでは、10年前に亡くなったサム・クック以来の規模だったという。カントリー・ブルースからジャズまでの統合を具体化し、真のモダン・ブルースをフルに開花させた偉大なミュージシャンである。
[日暮泰文]
『T-Bone Walker Interview(in Living Blues Magazine #11, #12, 1972, 1973, University of Mississippi, Jackson)』▽『Helen Oakley DanceStormy Monday; The T-Bone Walker Story(1987, Louisiana State University Press, Baton Rouge)』
アメリカのランドスケープ・デザイナー。1955年、カリフォルニア大学バークリー校ランドスケープ学科卒業。1956年イリノイ工科大学大学院、1957年ハーバード大学大学院でランドスケープ・アーキテクチャー修士号取得。ローレンス・ハルプリンLawrence Halprin(1916―2009)、ヒデオ・ササキHideo Sasaki(1920―2000)の事務所に勤務。その後SWA(ササキ・ウォーカー・アソシエイツ)のパートナー、マーサ・シュワルツMartha Schwartz(1950― )との共同事務所を経て、1983年ピーター・ウォーカー・アンド・パートナーズを設立。
ハーバード大学大学院ランドスケープ・デザイン学科教授(1976~1991)、カリフォルニア大学バークリー校ランドスケープ学科主任(1997~1999)を務める。
アメリカの近代的なランドスケープ・デザインは、「ランドスケープをデザインの芸術として確立することと、社会的な目的に対する献身」という二つの方向を目指したマンハッタン島のセントラル・パークをデザインしたフレデリック・ロー・オルムステッドFrederik Law Olmsted(1822―1903)に始まる。そして1960年代のランドスケープ・デザインは、造園、庭園設計という範疇から大きく踏み出し、都市デザインにおける新しい公共空間のデザインの重要性を考えるようになった。ウォーカーはその中心的存在であるローレンス・ハルプリン事務所で実務についた。ウォーカーは自立後さらにブラジルのランドスケープ・デザイナー、ロベルト・ビュール・マルクスRoberto Burle Marx(1909―1999)やルイス・バラガン、イサム・ノグチの影響を受け、独自のスタイルを確立していった。
それは幾何学的な要素を用い、ミニマルな操作で既存の環境をまったく新しいランドスケープにつくり変えることである。初期の作品でハーバード大学構内にあるタナー噴水(1985)はその特徴をよく表している。立地は大学構内の建物と建物にはさまれた交差点であり、構内で数少ないオープンスペースであったが、中心性を欠いていた。散策コースとして、読書やくつろぎのスペースとして、交通を妨げることなく、この環境の核になるデザインが求められていたのである。ウォーカーは周囲を大規模に改造することなく159個の自然石を円形状に配置した(一つの石の大きさはおよそ1メートル角)。円の中心部には細かい霧状の水が噴射されるノズルがあり、冬はヒーターで温められた霧は湯気になり、夜間は赤い照明で炎のように見える。その時々で意外な景観が楽しめる。デザインが前に出てくるのではなく、周囲を引き立てることによって、この場所の価値を高めたのである。
ウォーカーのランドスケープ・デザインの特徴は意外なマテリアルを適切な場所に配置し、その周囲の空間を象徴的な、あるいは芸術的な環境に変貌させることである。使われる素材は樹木や自然石に限らず、水、ステンレスなどがよく登場する。IBMソローナ(1989、テキサス州)、日本アイ・ビー・エム幕張(まくはり)テクニカルセンター(1991、千葉県)、豊田市美術館(1995)、西播磨(はりま)先端技術研究都市(1997、兵庫県)、ソニーセンター(2000、ベルリン)などは、それぞれ個性的な現代建築家とのコラボレーションであるが、建築のデザインとは異なったコンセプトをもちながらも、その周囲の環境を建築に調和させることに成功している。特に谷口吉生(よしお)との共同による丸亀市猪熊(いのくま)弦一郎現代美術館、丸亀市立図書館のランドスケープ(いずれも1991)は、美術館に至る駅前の複雑な景観と動線を見事にまとめ上げ、都市的な環境のなかにおける美術館のあり方を示した。
[鈴木 明]
『ピーター・ウォーカー、メラニー・サイモ著、佐々木葉二・宮城俊作訳『見えない庭――アメリカン・ランドスケープのモダニズムを求めて』(1997・鹿島出版会)』▽『パコ・アセンシオ編、杉山由夏訳『世界のランドスケープデザイナー』(1996・文献社)』▽『「特集 風景創出の現在――ランドスケープ・アーキテクトの挑戦」(『SD』1998年6月号・鹿島出版会)』
アメリカのプロ野球選手(右投左打)。大リーグ(メジャー・リーグ)のモントリオール・エクスポズ(現ワシントン・ナショナルズ)、コロラド・ロッキーズ、セントルイス・カージナルスでおもに外野手として17年間にわたって活躍した。打率とホームランを両立できる三冠王タイプの打者であり、守備や走塁にも優れる。
12月1日、カナダのブリティッシュ・コロンビア州メープルリッジで生まれる。メープルリッジ・シニア・セカンダリー高から1984年、ドラフト外でエクスポズに入団。1989年に大リーグ昇格を果たした。1990年からレギュラーとなり、94年まで5年連続して2桁(けた)のホームランと2桁の盗塁を記録した。また、好守と強肩で1992年と93年にはゴールドグラブ賞にも選ばれた。1995年にロッキーズに移籍。打率3割6厘、ホームラン36本、打点101の好成績をあげた。1996年は故障で83試合の出場にとどまったが、97年はあと一歩で三冠王という活躍で最優秀選手(MVP)を受賞。打率3割6分6厘はリーグ2位、ホームラン49本は1位、打点130はリーグ3位であった。1998年と99年は2年連続して首位打者を獲得。1997年からの3年間は、いずれもゴールドグラブ賞も受賞した。2000年は故障で87試合しか出場できなかったが、01年には復活して3回目の首位打者となり、ゴールドグラブ賞も受賞。2002年も同賞を獲得した。2004年の途中からカージナルスに移籍、勝負強い打撃で1982年以来のリーグ優勝に貢献した。2005年は首などを痛め、62試合を欠場、シーズン直後に引退を表明した。
17年間の通算成績は、出場試合1988、安打2160、打率3割1分3厘、本塁打383、打点1311。獲得したおもなタイトルは、首位打者3回、本塁打王1回、MVP1回、ゴールドグラブ賞7回。
[山下 健]
アメリカの化学工学者。初めリトルArthur D. Little(1863―1935)とともにコンサルティング・エンジニア会社を経営したが、1902年マサチューセッツ工科大学(MIT)の化学工学部門の主任となり、化学工学の体系を一新して今日の化学工学の基本的骨格をつくりあげた。当時の化学技術についての科学は、応用化学としての工業化学が中心であったが、1908年に設立されたアメリカ化学工学者協会の中心であったMITでは、ウォーカーとリトルに化学工学カリキュラムの編成を委嘱し、彼らは1915年に単位操作を中心とするカリキュラムを答申した。単位操作を柱とする化学工学は、化学技術の科学を、化学の一応用部門から工学の一領域として独立させ、化学工業における現場の技術を定量的に理解する道を開いたものとして高く評価される。1923年、ルイスW. K. Lewis(1882―1975)、マカダムW. H. McAdams(1892―1975)とともに化学工学の最初の標準的教科書である『化学工学の原理』Principles of Chemical Engineeringを出版、これによりこの年が化学工学の成立の年ともされる。ウォーカーは、化学工学者の養成には工場実習が不可欠であるとしてこれを取り入れるとともに、研究の発展のために産業界と大学が密接な協力を行うことを主張し、MITの性格にも大きな影響を与えた。また、アメリカにおけるアセチルセルロースの工業化に初めて成功した。
[加藤邦興]
イギリスの化学者。ハリファックス生まれ。1964年、セント・キャサリンズ大学化学科を卒業。1969年オックスフォード大学で博士号を取得。分子生物学に興味をもち、欧米を遊学した後、1974年イギリスに戻り、イギリス分子生物医学研究所タンパク質・核酸部門のF・サンガー(1958年、1980年のノーベル化学賞を受賞)のもとで研究を始める。1978年にタンパク化学的手法を膜タンパクに適応させて、その構造から酵素の触媒作用のメカニズムを解明する研究に着手。1982年イギリス分子生物医学研究所主任教授に就任。1990年代、ミトコンドリア膜に埋まった状態のアデノシン三リン酸(ATP)合成酵素の三次元構造を、X線結晶構造解析によって明らかにした。この仕事は、P・ボイヤーの提唱した、ATP合成酵素が部分的に回転することで酸化的リン酸化反応を行うとする、構造的作用メカニズムの理論を実際に裏付けることとなり、1997年にノーベル化学賞をボイヤーと共同で受賞した。
[馬場錬成]
ジョージア州に生まれる。アフリカン・アメリカン(黒人)の詩人、作家。スペルマン・カレッジからサラ・ローレンス大学に進み卒業(1965)。大学時代に詩才を認められ処女詩集『かつて』(1968)で女の体、愛、アメリカの黒人の苦悩をうたう。公民権運動の活動家で60年代の申し子。小説作品には『グレンジ・コープランドの第三の生涯』(1970)、『メリディアン』(1976)、ピュリッツァー賞受賞の『カラー・パープル』(1982)、『親しきものの神殿』(1989)、『喜びの秘密を持つ』(1992)などがあるが、散文集『母の庭をさがして』(1983)、『同じ川を二度』(1996)、短編集『愛と苦悩』(1973)や詩集のほうが高く評価される。「ウーマニスト」宣言をし戦闘的な女の姿勢を強調する。アフリカの女の割礼の問題を主題にドキュメンタリー・フィルム『戦士の刻印』(1994)を共同制作する。
[荒 このみ]
『柳沢由実子訳『カラー・パープル』(1986・集英社)』▽『荒このみ、葉月陽子訳『母の庭をさがして』正・続(1992、93・東京書籍)』▽『藤田登久子訳『アリス・ウォーカー短編集』(1997・南雲堂フェニックス)』
19世紀のなかば、中央アメリカのニカラグアに侵攻して大統領となったアメリカ人の冒険家。テネシー州ナッシュビル生まれ。1840年代にアメリカ合衆国は、「明白なる天命(マニフェスト・デステイニー)」というイデオロギーのもとでテキサスを併合し、さらに戦争でメキシコの領土を獲得するなど膨張主義の勢いを強めた。この風潮を背景に、ウォーカーは53年私兵を率いてメキシコ領に侵入、55年にはニカラグアに侵攻してこの国の実権を握り大統領となった(在任1856~57)。しかし、他の中央アメリカ諸国の連合軍に追放され、その後ホンジュラスでも争乱を画策したが捕らえられ、ホンジュラス政府により処刑された。
[加茂雄三]
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イギリスの生化学者.1969年オックスフォード大学で学位を取得し,ウィスコンシン大学やパリでの研究を経て,1974年ケンブリッジ大学医学研究会議分子生物学研究所に入った.1978年からATP合成酵素の研究をはじめ,1994年には F1-ATPアーゼを結晶化して,X線結晶解析によって三次元構造を明らかにした.この研究は,P.D. Boyer(ボイヤー)のATP合成機構の交代結合説(Binding Change Mechanism)を支持するもので,酸化的リン酸化の解明に大きく貢献した.この業績により,1997年Boyerとともにノーベル化学賞を受賞.1998年医学研究会議(MRC)Dunn Human Nutrition Unit所長に就任.
出典 森北出版「化学辞典(第2版)」化学辞典 第2版について 情報
イギリスの化学者。ストックトン・オン・ティーズの出身。初め外科医を志したが,手術を嫌って薬剤業に転向。1827年ころに最初の実用的な摩擦マッチを発明したことで知られている。その材料の正確な組成は不明だが,塩素酸カリウム,硫化アンチモンの混合物を木片の端に塗布乾固してつくった。当初〈フリクション・ライト〉という名で呼ばれ,84本入り1箱(摩擦用紙やすり付き)が1シリングの価格で販売された。
執筆者:古川 安
アメリカ合衆国テネシー州生れの冒険家で傭兵。1855年ニカラグアに,自由主義派の招待をきっかけに入り,同国の内戦に参加する。56年にはニカラグア大統領に就任するが,翌年には失脚。その後も中米への関心を捨てず,何度か介入を試みたものの,60年にホンジュラスに上陸したさい,逮捕されて銃殺された。
執筆者:山崎 カヲル
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…ニカラグア国内では,独立以前から保守派と自由派との抗争があり,前者はグラナダに,後者はレオンに基盤を置いていたため,首都は57年に両者の協議でマナグアに置かれることになった。なお,1855年にはアメリカの冒険家W.ウォーカーがニカラグアに少数のアメリカ人とともに到着し,アメリカの支援を受けて翌56年に大統領に就任したが,中央アメリカ各国の連合軍によって打倒された。57年から93年まで保守党政権がつづき,その間に鉄道建設が開始された。…
※「ウォーカー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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