アフリカ系アメリカ人(読み)アフリカけいアメリカじん(その他表記)African Americans

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「アフリカ系アメリカ人」の意味・わかりやすい解説

アフリカ系アメリカ人
アフリカけいアメリカじん
African Americans

アメリカ合衆国の民族集団。多くは奴隷として連れて来られたアフリカ人を祖先とするが(→黒人奴隷),黒人以外のアフリカ人の子孫も多い。奴隷所有者が用いた,黒人 black,ニグロ negro(スペイン語で黒の意)という呼称は侮蔑的であり,解放奴隷みずからを婉曲的にカラード coloured(有色人種)と称したが,アメリカ北部では大文字で始まる Negroが通用するようになった。20世紀半ばの公民権運動の際は父祖の地の誇りを表すアフロ=アメリカン Afro-Americanという表現も用いられたが,力と変革象徴としての黒(黒人)が,より一般的になった。1980年代末に公民権運動指導者のジェシー・ジャクソンがアフリカ系アメリカ人という呼び方を提唱し,今日では黒人とともに広く用いられる。
アフリカ系アメリカ人の歴史は 1619年,20人のアフリカ人がヨーロッパ系入植者の奉公人としてイギリス領バージニア植民地に連れて来られたことに始まる。1660年代までに大規模なアフリカ人移送が行なわれるようになり,1790年にはアフリカ系がアメリカの人口の 2割を占めた。この間,1750年までに,植民地全域で黒人奴隷が制度化された。奴隷は南部の綿花プランテーションの労働力として,綿花王国を支えた(→プランテーション制)。
南北戦争の結果,黒人奴隷は法的に解放され(→奴隷解放宣言),およそ 400万人が自由の身となった。南部における政治的な立場も向上し,1901年までに 20人が下院議員に,2人が上院議員に選ばれた。しかし南部諸州は黒人の公民権を制限する州法を相次いで制定,さらに人種分離制度(ジム・クロウイズム。→黒人差別法)を確立し,連邦最高裁判所もこれを是認した(→プレッシー対ファーガソン裁判)。
1895年,解放奴隷の子ブッカー・T.ワシントンは黒人に,政治・社会闘争をやめて労働に専念し,経済的地位の向上を目指すよう呼びかけた。ワシントンは白人有力者の支持を得たが,差別的な環境は改まらず,黒人をねらった暴力事件も増加した。1920年代,ジャマイカ出身のマーカス・ガーベイが黒人民族主義を掲げて大規模な大衆運動を組織すると黒人間に民族意識が高まり,ハーレム・ルネサンスと呼ばれる黒人文学・音楽・芸術の勃興もみられたが,ガーベイが投獄されると運動は勢いを失った。第2次世界大戦後,人種差別撤廃の気運が高まった。1954年,連邦最高裁判所はプレッシー対ファーガソン裁判の「分離すれど平等」の原則を覆し,公立学校の分離制度に違憲判決をくだした(→ブラウン対トピカ教育委員会裁判)。マーティン・ルーサー・キングは 1955年にバス・ボイコット運動を指導して勝利を収め,1963年のワシントン大行進は,包括的な差別禁止を定めた 1964年公民権法の成立を実現した。他方,1960年代後半にはブラック・パワー思想台頭,学校教育には黒人文化研究や黒人教員の登用を求め,若者の髪形や服装などにも影響を与えた。
アフリカ系アメリカ人は,映画,文学,音楽,スポーツなどの分野で才能を発揮し,すぐれた人材が輩出している。政治においては 2008年,ケニア出身の父をもつバラク・オバマが大統領に選出された。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「アフリカ系アメリカ人」の意味・わかりやすい解説

アフリカ系アメリカ人
あふりかけいあめりかじん
African American

アメリカ合衆国市民のうち、西アフリカ各地から奴隷として連行されてきた者を先祖にもつ人々のことをさす。当初は黒人奴隷制度のくびきの下で南部プランテーション地域に集中して居住していたが、今日では大都市中心部の「黒人ゲットー(ブラック・ゲットー)」とよばれる貧困地区に居住している人々が多い。黒人が北部に大量移住したおもな原因は、第一次世界大戦以後、ヨーロッパからの移民が急激に減少し、北部の工業企業が南部の黒人をその労働力として求め始めたことにあるが、南部の綿作プランテーション農業が害虫の被害や近代化によって解体し始め、黒人を労働力として保持することができなくなったからでもあった。

 2000年の国勢調査によれば、黒人の人口は3465万8190人、全人口に占める割合は12.3%である。ここには白人やその他のグループの人々との混血人口も含まれている。アメリカでは、黒人の「血が一滴」でも含まれる人々は「黒人」として扱われ、さまざまな差別を受けている。黒人は、アメリカに渡ってきた集団のなかではもっとも早くに到着した集団の一つであり、西アフリカの文化的伝統を受け継ぎつつも、もはやアフリカ人ではなく、言語、宗教、生活習慣の点でも、また歴史的な共通の経験、独自の文化という点でも完全な「アメリカ人」である。しかし、アメリカの白人たちはこれらの人々を長いこと「アメリカ人」として扱うことを拒否し続け、蔑称(べっしょう)である「ニガーnigger」とよんだり、多少客観性をもった呼称である「ニグロNegro」ということばを用いてきた。しかし、自らの人種の尊厳に目覚めた黒人たちは、自らを「有色人種(カラードColored)」や「黒人Black」とよぶようになり、さらに黒人公民権運動が高揚するようになった1960年代に入ると、自分たちがアメリカ人の一員であることを自己主張する意味を含めて「アフロ・アメリカンAfro-American」の語を積極的に用いるようになった。また、近年では、文化的にアフリカに根をもつことが強調され、「アフリカ系アメリカ人(アフリカン・アメリカン)」とよぶことが多くなっている。

[上杉 忍]

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「アフリカ系アメリカ人」の解説

アフリカ系アメリカ人(アフリカけいアメリカじん)
African Americans

大半が奴隷としてアメリカに連れてこられたアフリカ黒人の子孫で,2000年国勢調査では人口の12.3%を占める(3470万人,同調査でヒスパニックスが12.5%で黒人を抜いてマイノリティの首位になった)。呼称はいまだ黒人(ブラック)が一般的。1865年の奴隷制廃止以降も差別を受け続けたが,1950年代後半からの公民権運動の成果が実り,64年公民権法と65年投票権法でほぼ完全な法的な平等を獲得し,アファーマティブ・アクションなどで中産階級が生まれた。政治力では連邦・地方議員,州知事,大都市の市長などめざましい躍進をみせたほか,スポーツ,芸能界でも白人をしのぐ活躍がある一方,いまだ所得水準は低く,99年の貧困率は全米平均の2倍である。家族の半数強が未婚女性の世帯で,多くがシングルマザーなので,家族所得が伸びない。あからさまな差別はないとはいえ,黒人に対する人種偏見はいまだ根強い。国家に対して奴隷制への謝罪と補償を求める運動は注目すべきである。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

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