改訂新版 世界大百科事典 「エスエル党」の意味・わかりやすい解説
エス・エル党 (エスエルとう)
20世紀ロシアの革命政党。正称はPartiya Sotsialistov-Revolyutsionerov。1890年代の末,革命的ナロードニキ運動の伝統を新状況の中で再生させようとする人々が〈社会主義者・革命家〉,略称エス・エル(SR)と名のりはじめた。その中でテロルの復権をめざすアルグノフAndrei Aleksandrovich Argunov(1866-1939)らのエス・エル同盟と,農民工作も否定せず,組織の結集をめざしていた初期エス・エル党とが1901年12月国外でのゲルシューニ,セリュークMariya Frolovna Selyuk(1872-?),アゼフらの協議により合同を決め,これに亡命者たちが加わり,党が生まれた。党の機関誌《革命ロシア》の編集部にはチェルノフとゴーツMikhail Rafalovich Gots(1866-1906)が入った。ゲルシューニはテロルを実行するエス・エル党戦闘団の組織化を試み,02年4月のシピャーギン内相暗殺ののちこれを党に公認させた。彼の逮捕後はアゼフがこれをうけついだ。他方,1902年3月ポルタワ,ハリコフ両県におこった農民運動ののち,チェルノフの農民社会主義は全党にうけ入れられ,エス・エル党農民同盟も組織された。党は綱領も規約も決めずに生まれ,活動の中でしだいに綱領をつくり上げていくという行き方をとった。チェルノフを中心にまとめられた綱領案によれば,プロレタリアート,勤労農民,社会主義インテリゲンチャの3者の団結により社会主義をめざすが,まず第1段階として専制の打倒,民主共和国の実現,民族自決と連邦原理による民族問題の解決とともに,土地を全人民の財産とし,勤労基準に基づいて均等に用益させるという〈土地社会化〉の実現をはかる革命をめざすことになっていた。戦闘団は04年7月に国民の憎悪の的であった内相プレーベの暗殺に成功し,ツァーリズムを大きくぐらつかせた。党は05年革命の中で勢力を伸ばし,その〈土地社会化〉綱領は農民の願いと合致していることが証明された。06年1月に開かれた第1回党大会で正式に綱領・規約が採択された。こののちテロル否定の人民社会主義者(エヌ・エス)党と工場の社会化をもめざすというマクシマリスト党の二つが党の右と左に分裂した。06年10月党員5万人,シンパ30万人といわれたこの党は,反動期にはその組織的もろさを露呈したが,08年11月に動かしがたいものとなったアゼフの裏切りの事実から致命的な打撃をうけ,こののち解体状態に陥った。ストルイピン改革も共同体的伝統に土地社会化の一つの根拠を求めた綱領への確信をぐらつかせた。第1次世界大戦の中では戦争を支持した右派と反戦左派の対立は深刻になった。17年,二月革命がおこると,自由な空気の中で多数の入党者を得て,党は膨張した。エス・エル党の主流はメンシェビキとともに臨時政府に入閣する方向をとり,農相ポストにチェルノフを送り込んだ。17年におけるエス・エル党の敗北は農相の悲劇的無為に凝縮的に表現されている。地主の土地に対する農民の実力による奪取の志向を前にしながら,憲法制定会議での〈土地社会化〉綱領の実現に固執したエス・エル党は,何一つこたえられずに終わったのである。これに批判的な左派はボリシェビキに接近していく。十月革命により臨時政府が打倒されたのち,憲法制定会議選挙が行われ,エス・エル党はロシア史上ただ一度のこの普通選挙で,ウクライナ・エス・エルを含めると707議席中438,投票率で40.4%を得て第一党となった。しかし18年1月チェルノフを議長として開かれた会議は,土地基本法大綱を採択しただけで解散されてしまった。党はこののち地下にもぐり,チェコ軍団と結んだ反乱の道に立ったが,この党の民主主義路線と地主的・王党派的な将軍たちの路線とは共存しえず,反ボリシェビキ派の中でも党は弾圧された。このため19年にはボリシェビキとの武装闘争を一時中止し,第三の道をめざすとの路線を打ち出したりもした。21年の内戦終了後は亡命地での活動のみが残った。
→左派エス・エル党
執筆者:和田 春樹
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報