オランダの人文学者。ロッテルダムに司祭の非嫡出子として生まれる。少年時代、デベンテルの「共同生活兄弟会」の学校で教育を受け、「新しい献身」の名でよばれる敬虔(けいけん)心を植え付けられた。1488年にステインのアウグスティヌス派の修道院に入ったが、晩年には教皇に請願して僧籍を脱した。カンブレーの司教の秘書を務め、その援助で1495年パリに遊学、もっぱら古典ラテン文芸の研究に没頭した。自活をするためにイギリス貴族の子弟の個人教授をし、1499年教え子といっしょにイギリスに渡り、トマス・モアやジョン・コレットらの人文学者と知り合った。とくにコレットのパウロ書簡の研究に刺激され、翌1500年パリに戻ると、ギリシア語の勉強をやり直して聖書研究に専心した。その成果は『キリスト教戦士必携』(1504)に示されている。1506年にはイタリアからイギリスへ旅行中に着想して、ロンドンのトマス・モアのところで一気に書き上げたのが有名な戯文(げぶん)『愚神礼賛(ぐしんらいさん)』(1511)である。それは「愚(おろ)かさの女神」が世にいかに愚かごとが多いかを数え上げ、自慢話をするという形式をとり、哲学者・神学者の空虚な論議、聖職者の偽善などに対する鋭い風刺が語られている。
1516年、キリスト教君主たちの間でキリスト教的平和の締結されることを切望した『キリスト教君主の教育』を公刊。またギリシア語『新約聖書』の最初の印刷校訂本を上梓(じょうし)したり、『ヒエロニムス著作集』(ともに1516)を公刊するなど、多彩な活動をなし、「人文学者の王」と仰がれるに至った。晩年はスイスのバーゼルに住み、そこで死去した。彼は教会の堕落を厳しく批判し、聖書の福音(ふくいん)の精神への復帰を説いたので、その弟子からは多くの宗教改革者を出した。彼自身もルターの宗教改革に初めは同情的であったが、その熱狂的な行動には同調できず、『自由意志論』(1524)を書いて論争してからはルターと決定的に分裂した。彼の思想はプラトン主義に立脚したパウロのキリスト教に基礎を置いているが、より実践的であり、なによりも思慮と節度を重んじた。ディルタイによって「16世紀のボルテール」とよばれたように、コスモポリティック(世界的)な精神の持ち主で、近代自由主義の先駆者であるばかりでなく、ラブレーをはじめフランス文芸思潮に大きな影響を及ぼした。
[伊藤勝彦 2015年11月17日]
『J・ホイジンガ著、宮崎信彦訳『エラスムス』(1965・筑摩書房/ちくま学芸文庫)』
ルネサンス最大の人文主義者。オランダのロッテルダム出身。修道司祭となったが神学研究のため1494(または95)年パリに留学後は再び修道生活に復帰せず,言葉の正確な理解を基礎とした実証的・歴史的方法によって聖書・教父文学や異教古代の研究に先導的役割を果たし,幾多の古代文献を初めて活字化した。一方こうした学究的成果に立って当時の社会・文化の歪みを批判することに驚くべき健筆をふるいつつ,ヨーロッパ各地を転々とし,スイスのバーゼルに没した。その著作は二折判全10巻11分冊に達する。キリスト教古代と異教古代とに深く沈潜した結果,彼が到達したキリスト教的ヒューマニズムは,最初の代表作《キリスト教兵士提要》(1504)に明らかである。すなわち悪と罪という最大の敵に戦いを挑むべき新時代のキリスト者の武器は,〈祈りと聖書〉に尽きるが,しかし聖書の中世的理解にとどまらずその真の精神を悟るには準備段階としてギリシア・ローマ異教古代の詩人・哲人の遺産に〈淫することなく親しむ〉必要がある。さらに真の信仰生活は,各個人が聖書,とりわけその根幹である福音書とパウロの書簡とに直接触れ合い,その精神と生きた実例とに倣うことだとするのである。これはとりもなおさず中世カトリック教会が築きあげた教理典礼や伝承,あるいは生の理想としての修道院制度などを二義的とする新しい信仰観の表明であり,やがて福音主義のよりどころに,さらには宗教改革への道をひらく予言的主張であった。
その後の彼の全活動は,この主張の実現に向けてのたゆみない努力と見ることができる。古代の生んだ名句金言に語学的・歴史的注解をつけた《格言集》(増補版,1508)やラテン語修辞学を論じた《文章用語論》(1512)は正確な古代の姿を伝えようとしたものであり,一方各種写本を校合して史上初めてギリシア語原典を活字化し詳細な注解とラテン語訳を添えた労作《校訂ギリシア語新約聖書》(1516)やヒエロニムスその他教父の著作の史上初めての活字化(1516-28)は,〈人知による捏造や人為の制度〉から真のキリスト教を解放しようとするものであった。しかも当然予想された保守的カトリックの激しい非難や,教会分裂を是認しようとしない彼に対するルター派の攻撃を浴びながら,彼は愛と平和の福音精神の下に一つに結ばれた世界の実現をめざす戦うヒューマニストとして,より広い読者に対し警世の筆をふるい続けた。有名な《痴愚神礼讃》をはじめ古代の英知に倣った《対話集》(1522-33),ヒューマニズムの政治哲学を代表する《キリスト教君主教育》(1516)や近代最初の平和論《平和の訴え》(1517),男女両性の愛と合意に基づく世俗の結婚生活に積極的価値を認めた《キリスト教的結婚教育》(1526),子どもの自発性と個性を尊重した《子どもの教育について》(1529)やより実際的な《子どもの礼儀作法について》(1530)などは,しばしば重版翻訳され,同時代および後世に広い影響を与えている。
→人文主義
執筆者:二宮 敬
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1469頃~1536
オランダ,ロッテルダム出身の人文主義者。パリ大学に学ぶ。多くの古典時代の著作を校訂刊行したほか,史上初めてギリシア語原典による新約聖書を刊行して,宗教改革の道を開いた。また『愚神礼賛』などによって当時の社会,文化,とりわけ教会と聖職者の腐敗,堕落に鋭い批判を浴びせ,平和と寛容を説き,「ヒューマニストの王者」としての評価を受けた。
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…それらの特質については定評のあるユダヤ人を17世紀に多数迎え,同国人として温かく遇したのも,商業国民としての自信や自覚があったからだと思われる。また,エラスムスの祖国として知られるこの国には,寛容とヒューマニズムの伝統がいまも深く根づいている。19世紀中葉まで改革派教会が公認の宗教として国教会に近い地位を占めたが,カトリックの信徒が迫害されたことはなく,19世紀後半に誕生したプロテスタント系とカトリック系の両政党は常に友好関係を保ってきた。…
…けれども〈聖書原理〉と〈信仰のみ〉の義認理解はすでに確実であり,〈召命〉を基礎とする新しい職業観と倫理観もしだいに確立して,福音主義教会が各地に始まり,教育制度も大きく変えられていった。ルターはエラスムスをはじめとする人文主義者と一致せず,《奴隷意志論》(1525)ではその自由意志説を徹底的にたたいたが,メランヒトンはルターへの協力をやめることなしに人文主義を生かして大学改革に尽力した。新しい《ルター大小教理問答》は1529年に書かれ,これはメランヒトンその他数名の協力を得て30年6月に成った《アウクスブルク信仰告白》とともに福音主義信仰の全内容を示している。…
…しかし,イタリアでの枯渇化とは逆に,アルプス以北の国々に波及した人文主義は祥運を続け,折から吹き荒れる宗教改革の嵐と交錯しながら,活動を拡大する。オランダのアグリコラRodolphus Agricola(1443‐85),ドイツのメランヒトン,フランスのビュデ,イギリスのT.モアらがその代表であるが,なかでもエラスムスの存在は大きい。彼によって人文主義はいっそうキリスト教的基盤へと引き寄せられ,自由・寛容の精神として近代に継承されていった。…
… このように王侯・貴族から商人にいたるまで,旅を生活の基本形態としていたことは,西欧中世の文化に特異な性格を与えることになった。エラスムスが《対話集》のなかにあげている4人の市民のサンチアゴ・デ・コンポステラ巡礼の話が,結局は1人だけがかろうじて尾羽打ち枯らして戻るという悲惨な結果に終わったように,中世において遠方の地への巡礼行は生命をかけた行為であった。地位も財産もできた中年の男性たちが,酒の上での約束にせよ,サンチアゴへの巡礼に旅立ってゆくということは,エラスムスの誇張ではなく現実にありうることである。…
…エラスムスのラテン語風刺文学(1509執筆,1511刊)。《愚神礼讃》とも訳される。…
…シェークスピアにとってこの世は〈巨大な道化芝居の舞台〉(《リア王》)だったのである。 偉大な人文学者エラスムスにとっても,道化的世界観は親しいものだった。彼の《痴愚神礼讃》では,〈痴愚〉の化身たる女神が祭りの喧騒の中で女道化の一人芝居よろしく長広舌をふるって,この世をあまねく支配している自分の力を自慢している。…
…18世紀の半ばになっても,1版が600部を超す場合はまれであった。これにはもちろん例外があり,エラスムスの《格言集》などは16世紀の最初の数十年間に,各版1000部を刷って34版を重ね,同じ著者の《対話集》は,存生中に2万4000部を印刷している。ルターの《ドイツ国民のキリスト教貴族に与う》は,発行後5日間に4000部を売りつくした。…
…そして世界各国の商社・銀行なども競ってここに進出し,ヨーロッパで最も重要な経済的中心地となりつつある。また遅れていた文化的機能でも,総合大学(エラスムス大学。73年,商科大学,医科大学を統合)が発足し,オーケストラ,劇場などの整備が進んでいる。…
※「エラスムス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
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