西ローマ帝国を倒したゲルマン人傭兵隊長。スキラエ族の出で,470年ローマ軍に入り,やがて諸部族混成ゲルマン人部隊の指揮官となる。476年,時の実権者オレステスに対して反乱を起こしたゲルマン人部隊は,オドアケルを王と布告し,オレステスを殺して西帝ロムルス・アウグストゥルスを退位させた。その後オドアケルは西帝を立てず,東帝に帝冠を返してパトリキウス称号の授与を求めた。東帝ゼノンは正式な称号授与は行わなかったが,書簡では彼をパトリキウスと呼び,事実上オドアケルのイタリア支配を認めた。しかし486年以後,両者の関係は悪化し,489年には東帝の委託を受けた東ゴート王テオドリックがイタリアに進撃。敗北を喫したオドアケルはラベンナに撤退してなお対抗したが,奸計により493年3月15日殺害された。オドアケルはローマの行政機構を踏襲しつつ,元老院の地位強化(銅貨鋳造の委任など)や土地分割に際しての一部賠償などの施策により元老院貴族層の支持をえ,また自身はアリウス派のキリスト教信徒であったがカトリックにはあまり干渉しないなど,ローマとゲルマンの共存を図って有能な支配者であった。
執筆者:後藤 篤子
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434頃~493
ゲルマンの傭兵隊長。父アエディコ(スキリ族)はアッティラの宰相。ローマ親衛隊司令官となり,ゲルマン傭兵の支持を得て,皇帝を廃位した(西ローマ帝国の滅亡,476年)。東ローマ皇帝ゼノンより総督の称号を受け,イタリア,ダルマツィアを支配したが,東ゴート王テオドリック(大王)に敗れ,3年間ラヴェンナを包囲されて開城。共治を協定したが,数日後同王に殺害された。
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ゲルマン出身のイタリア王(在位476~493)。ドナウ川中流域に定住したゲルマンの小部族スキル人の名門の出身。スキル人が東ゴートに滅ぼされたのち、西ローマ帝国皇帝アルテミウスの親衛軍に入り、将軍リキメールが皇帝を廃位したとき、彼を助けて頭角を現した。リキメールの後継者オレステスが自分の息子ロムルスを帝位につけると、これに対立し、476年オレステスを殺し、ロムルス・アウグストゥルスを廃して西ローマ帝国を滅ぼし、自らイタリア王を称した。東ローマ(ビザンティン)帝国は最初これを黙認していたが、のち東ゴート王テオドリックにオドアケル討伐を託した。オドアケルは、イタリアに侵入したテオドリックに493年降服、その後テオドリック自らの手で殺された。
[平城照介]
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…次の皇帝ネポス(在位474‐475)も東から送り込まれたが,彼も将軍オレステスに追い出され,オレステスは息子ロムルス・アウグストゥルスを帝位に就けた。しかし,同盟部族との交渉が決裂してスキラエ人将校オドアケルはオレステスを殺し,ロムルス・アウグストゥルスを廃位した(476)。ロムルス・アウグストゥルスはもともと東帝によって承認されなかった皇帝で,ネポスは480年殺害されるまでダルマティアで帝位を主張していた。…
※「オドアケル」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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