デジタル大辞泉 「カストロ」の意味・読み・例文・類語
カストロ(Castro)
(Raúl ~)[1931~ ]キューバの政治家。の弟。の退任後、国家評議会議長・軍最高司令官に着任。2015年、米国との国交断絶以来初めて米大統領との首脳会談を行った。これにより両国は54年ぶりに国交を回復。
革命キューバの最高指導者で、ラテンアメリカが生んだもっとも傑出した革命家、政治家の一人。オリエンテ州北部のビランの近郊で生まれる。父親はスペインのガリシアからの移民で、砂糖と木材で成功した比較的富裕な砂糖農園主。幼少から恵まれた環境で育ち、イエズス会派の学校で初等・中等教育を受けたのち、1945年ハバナ大学法学部に入学。大学で法律を学ぶ一方で、学生運動の指導者として台頭し、大学内外の政治闘争に参加した。1947年にはドミニカ共和国をトルヒーヨの独裁政治から解放するための遠征隊に加わった。1949年に大学を卒業したのち、ハバナで弁護士となり、政治犯や貧しい人々のために才腕を振るった。
キューバでは1952年3月、フルヘンシオ・バチスタがクーデターで政権をとり、あらゆる反対派を押さえつける独裁政治が始まった。この独裁政権を打倒するためにカストロらは1953年7月26日、オリエンテ州サンティアゴ・デ・キューバにあるモンカダ兵営を襲撃し、ここから革命家としての経歴が始まった。襲撃は失敗し、彼は逮捕され、裁判にかけられたが、このとき「歴史はわたしを無罪にするだろう」という有名な自己弁論を行った。恩赦で釈放されたのちメキシコに渡り「7月26日運動」を結成。1956年末にふたたびキューバに侵攻した。彼の傑出した指導力のもとでの2年間にわたるゲリラ戦ののち、1959年1月ついにバチスタ政権を打倒し革命を成功させた。革命政権はその後さまざまな難局に直面したが、1959年2月に首相に就任して以来の彼の卓抜な指導力とカリスマ的権威によりそれらを乗り切った。国家元首である国家評議会議長、閣僚評議会議長、キューバ共産党第一書記、革命軍最高司令官を兼任し、国民の間での強い信頼と相まって、名実ともに最高指導者の地位にあったが、2006年腸内出血のため権限を暫定的に実弟のラウル・カストロに委譲し、2008年には国家評議会議長、閣僚評議会議長、革命軍最高司令官を辞任、次いで2011年にはキューバ共産党第一書記を辞任し、事実上政界から引退した。
[加茂雄三 2016年12月12日]
『H・マシューズ著、加茂雄三訳『フィデル・カストロ』(1971・紀伊國屋書店)』▽『後藤政子編訳『カストロ 革命を語る』(1995・同文舘出版)』▽『新藤通弘著『現代キューバ経済史――90年代経済改革の光と影』(2000・大村書店)』
キューバの政治家。長年にわたり最高指導者を務めたフィデル・カストロの実弟。オリエンテ州北部のビラン近郊に生まれる。ハバナ大学で学んだのち、兄のフィデルとともに反バチスタ独裁闘争に従事し、ゲリラ戦の指導者として優れた才能を発揮した。革命後は1959年10月革命軍事相に就任し、以来軍部を掌握している。国家評議会第一副議長、閣僚評議会第一副首相、キューバ共産党第二書記を兼任し、フィデルに次いでキューバでナンバー2の地位にあった。2008年病身のフィデルが職を辞し、ラウルは国家評議会議長に就任した。2011年には、キューバ共産党第一書記にも就任した。フィデルに比べてカリスマ性に欠けるが、軍人や若者の間での信望は厚く、その指導力は高く評価されていた。妻のビルマ・エスピンVilma Espin(1930―2007)はゲリラ戦争時代の同志で、党中央委員、キューバ婦人同盟議長であった。
[加茂雄三]
2018年4月、ラウルは国家評議会議長を引退し、かわりにディアスカネルMiguel Diaz-Canel(1960― )が選出された。ディアスカネルは翌年公布の新憲法のもと大統領に就任、2021年4月にはラウルが共産党第一書記を退任したあとを受け、第一書記にも就いている。
[編集部 2021年10月20日]
ブラジルの栄養学者、人文・経済地理学者。北東部ペルナンブコ州レシフェに生まれる。1939年以降、国立リオ・デ・ジャネイロ大学で栄養学、人文地理学講座を担当。そのかたわら、1952~1956年の間には国連食糧農業機関(FAO)理事会議長の職にあったほか、多くの国際会議でブラジル代表として活躍した。しかし、1964年の軍事クーデターで公職を追放され、パリに移り国際的活動を続けたが、1973年同地で客死した。主著『飢餓の地政学』Geopolítica da Fome(1951)で、全世界的な飢餓現象の実態とその社会的・経済的背景を解明。現代の飢餓が、自然的要因によるものではなく、西洋物質文明の享受を妨げる誤った社会・経済組織の所産にほかならないと主張し、大きな国際的反響を呼び起こした。
[本多健吉]
『国際食糧農業協会訳『飢えの地理学』(1955・理論社)』▽『ジョズエ・デ・カストロ著、大沢邦雄訳『飢餓社会の構造』(1975・みき書房)』
スペインの劇作家。バレンシア出身の軍人で地元の文学活動に加わり、のちにマドリードに出て貴族に仕えながら戯曲を書く。ロペ・デ・ベガとは作品を贈り合うほどの親交があった。代表作は国民的英雄のロマンセ(史詩)を劇化した二部作で、『若き日のシッド』(1618)および『シッドの武勲』(1625)からなる。この作品に想を得て、フランス人好みに仕立てたコルネイユの『ル・シッド』(1636)はフランス古典劇の出発点と目される。ほかに史劇もあり、『ドン・キホーテ』の一部など、セルバンテスの小説を脚色した最初の作家でもある。マドリードで没。
[菅 愛子]
スペイン、ロマン主義の女流詩人。ガリシア地方に私生児として生まれる。早くから詩作を始め、ガリシア語による作品は『ガリシアの歌』(1863)、『わか葉』(1880)に収められている。故郷の風土そのままの郷愁的トーンを特色とし、その叙情性と地方擁護の姿勢は地方主義作品として近年評価が高まっている。代表作はカスティーリャ語による『サール河畔にて』(1884)で、名状しがたい魂の痛み、漠然とした死の強迫観念がガリシアの風景に託されて、激しい情感で歌われる。形式の斬新(ざんしん)さ、韻律の独創性により、グスタボ・A・ベッケルと並んでスペイン近代詩の先駆者と評される。
[有本紀明]
『『世界名詩集大成14 南欧・南米篇』(1960・平凡社)』
ポルトガルの詩人。名門の出身。パリでフランスの象徴派詩人と交わり、象徴詩を研究、詩作した。自国の伝統的な作詩法を不満としてその改革を試み、帰国の翌年、詩集『夫婦対談』(1890)を発表してポルトガルに象徴詩を紹介した。ほかに散文詩『ベルキス』、劇詩『サグラモール』などがある。
[濱口乃二雄]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
キューバの政治家で,同時に第三世界の指導的人物の一人。キューバ東部オリエンテ州のビランにある砂糖農園主の子として生まれる。生家が比較的富裕な階級に属していたため,カトリック系の小学校,高等学校で教育を受け,1945年にハバナ大学法学部に入学。少年時代のフィデルについて,弟のラウルは,兄は正義感の強い不屈な性格の持主であったと述べている。在学中に学生運動の指導者として内外の政治闘争に参加し,卒業後は弁護士となって政治犯や貧乏人のために才腕をふるった。53年7月26日,同志とともに当時のバティスタ独裁政権を武力で打倒すべく,サンチアゴ・デ・クーバの郊外にあるモンカダ兵営を襲撃したが,失敗し捕らえられ,その裁判で〈歴史は私に無罪の宣告をするであろう〉と自ら弁論を行った。その後〈7月26日運動〉を結成し,革命闘争を指導して59年1月1日ついにバティスタ独裁を打倒した。革命政府の首相となり,キューバをアメリカの半植民地的支配から解放するとともにラテン・アメリカで最初の社会主義革命を実現させた。アメリカの敵意と圧迫のもとでソ連などの社会主義諸国と連帯して社会主義国家の建設と防衛を行う一方,60年代後半には僚友チェ・ゲバラとともにラテン・アメリカ革命を推進し,70年代にはアンゴラ等アフリカの民族解放闘争を支援,79年にはハバナで非同盟諸国首脳会議を開催するなど,第三世界の指導的な政治家としても活躍。キューバ共産党第一書記,国家評議会議長(元首),閣僚評議会議長(首相)の地位にある。民衆に対する深い愛情と,巨体に漂わすカリスマ的な魅力,傑出した指導力などにより,革命闘争の時期以来現在にいたるまでキューバ国民の強い信望をえている。不屈で大胆であると同時に,柔軟な現実感覚とすぐれた先見性を備えた革命家,政治家である。
執筆者:加茂 雄三
スペインの歴史家,批評家。スペインと中南米の各大学で教えた後,プリンストン,ハーバード両大学でも教鞭をとった。スペイン文化の形成において,キリスト教徒,ユダヤ人,ムーア人の共存が決定的要素であることを説いた《スペインの歴史的現実》(1954)でスペイン史に新たな視点を導入し,それに反対する歴史家サンチェス・アルボルノースと大論争を展開した。またセルバンテス研究家としても高名で,《セルバンテスの思想》(1925)はその後の研究の指針となった記念碑的著作である。
執筆者:牛島 信明
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1926~
1950年代のキューバの反政府武装闘争の指導者,その後の革命政府の首相,国家元首(在任1976~)。学生時代より反体制運動に参加し,53年にはバティスタ独裁政権に対して武装蜂起を企てたが,制圧され投獄された。恩赦ののち亡命先のメキシコで出会ったゲバラらとともに56年に海路キューバに戻り,反政府ゲリラ戦を展開した。反政府勢力の拡大の前にバティスタは亡命し,カストロは59年1月に革命政権を樹立した。その後,アメリカと対立し,急速にソ連ブロックに接近した。1976年の新憲法で国家評議会議長(国家元首)に就任。その他閣僚評議会議長(首相),軍司令官,共産党第一書記を兼ねた。非同盟運動で主導的な役割を果たし,また海外の革命運動を活発に支援したが,90年代初頭のソ連を中心とした共産圏の崩壊で打撃を受け,非常事態を宣言した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…面積8400km2,人口11万(1978)。島のおもな町はアンクドAncud(人口1万6000)とカストロCastro(人口1万4000)。大陸部海岸山脈の延長にあたり,山地は森林におおわれている。…
…世紀末を代表する詩人としてはゲーラ・ジュンケイロ,ゴメス・レアルAntónio Duarte Gomes Leal(1848?‐1921)らがいる。フランスの象徴主義運動をポルトガルに移入したのはエウジェニオ・デ・カストロEugénio de Castro(1869?‐1944)で,これをゆるぎないものとしたのはカミーロ・ペサーニャCamilo de Almeida Pessanha(1867‐1926)である。 1910年にポルトガルで革命が起こり共和政になると,それに呼応するかたちで一群の知識人が雑誌《鷲》(1910創刊)によって活動を開始した。…
…ラテン・アメリカ音楽ラテン・アメリカ文学
【政治,外交】
[政治構造]
キューバの政治は唯一の政党であるキューバ共産党(PCC)の指導のもとで,国家機構を通じて行われている。革命後のキューバでは最高指導者であるF.カストロを中心とした個人的色彩の強い政権により政治が行われてきたが,1970年代に入って個人指導から党による指導へと方針が改められるとともに,党の強化がはかられ,75年に第1回共産党大会が開かれて党による指導が明確に打ち出された。党には政治局,書記局,中央委員会が置かれたが,書記局は第4回党大会(1991)で廃止され,現在は政治局と中央委員会の構成員が党幹部を形成している。…
…フィデル・カストロの指導のもとにキューバで行われた,ラテン・アメリカにおける最初の社会主義革命。
[反乱の開始]
〈すべてはモンカダから始まった〉といわれるように,キューバ革命は,1953年7月26日,カストロが率いる反乱グループが東部オリエンテ州のサンチアゴ・デ・クーバ郊外にあるモンカダ兵営を襲撃することによって始まった。…
…さらに時代を下ればアーサー王のひげがあり,《ローランの歌》はカール大帝(シャルルマーニュ)の白ひげを繰り返し歌っている。東ローマ皇帝コンスタンティヌス4世はPogonatus(鬚皇帝)とあだ名され,キューバ革命を成し遂げたF.カストロはEl Barbudo(髭男)と呼ばれている。 ひげを敬った古代ギリシア人は医神アスクレピオスに金の髯を与え,神話中最強の英雄ヘラクレスにみごとな髭をつけただけではない。…
…1898年の米西戦争でキューバはスペインから独立したが,その後キューバは合衆国の〈保護国〉となり,植民地的な支配が強まった。それに対する反発はやがてカストロが指導する1959年のキューバ革命となって現れ,キューバはその後社会主義革命を宣言してラテン・アメリカで最初の社会主義国家となった。
[混沌とした変革期]
キューバ革命はこの地域の現状変革の動きにさまざまなかたちで影響を及ぼした。…
※「カストロ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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