カストロ(英語表記)Castro, Américo

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

カストロ
Castro, Américo

[生]1885. リオデジャネイロ
[没]1972.7.25.
スペインの言語学者,批評家。 R.メネンデス・ピダルに師事し,マドリード,プリンストンなどの大学で教壇に立つ。主著はスペイン文学の形成に果したアラブおよびユダヤ的要素の重要性を指摘した『歴史のなかのスペイン』 España en su historia (1948) 。ほかに『セルバンテスの思想』 El pensamiento de Cervantes (25) など。

カストロ
Castro, Cipriano

[生]1858.10.12. ベネズエラ,パチョ
[没]1924.12.4. プエルトリコ,サンフアン
ベネズエラの政治家,独裁者。大統領(在任 1901~08)。1899年アンデス山岳地方の住民を率いてカラカスを占領し権力を握ったが,外国資本圧迫政策をとったため,1902~03年にはイギリス,ドイツ,イタリア 3国海軍による港湾封鎖を受けた。これに対してアメリカ合衆国は 3国に強硬な撤退要求を行ない,カリブ海の支配権をめぐる帝国主義勢力の対立,いわゆる「ベネズエラ危機」へ発展した。1904年事件は解決したが内外の支持を失い,また健康上の理由もあってヨーロッパへ外遊中,1908年腹心のフアン・ビセンテ・ゴメス権力を奪われた。

カストロ
Castro, Eugénio de

[生]1869.5.24. コインブラ
[没]1944.8.17. コインブラ
ポルトガルの詩人。リスボン大学を卒業後,外交官を志し,ウィーンの大使館に勤務したが,まもなくやめてパリにおもむき,そこでベルレーヌをはじめとする象徴派詩人たちと交友。 1889年帰国,ポルトガルに象徴主義を紹介した。 1914年コインブラ大学教授に任じられ,フランス文学を講じた。代表作『夫婦の対話』 Oaristos (1890) ,『サグラモール』 Sagramor (95) ,『サロメ』 Salomé (96) 。

カストロ
Castro, Fidel

[生]1926.8.13. ビラン近郊
[没]2016.11.25.
キューバの政治家。フルネーム Fidel Alejandro Castro Ruz。富裕なサトウキビ農園主の非嫡出子。1945年ハバナ大学法学部に入学後,学生運動の指導者として反政府活動を行なった。1947年ドミニカ共和国のラファエル・レオニダス・トルヒーヨ・モリナ独裁体制打倒を目指す遠征に参加。1950年ハバナ大学卒業後弁護士となり,1952年キューバ人民党から国会議員に立候補したが,フルヘンシオ・バティスタ・イ・サルディバルによるクーデターで選挙は無期延期になった。1953年7月26日サンチアゴデクーバモンカダ兵営を襲撃したが失敗,実弟ラウルカストロとともに懲役刑に処せられた。1955年特赦で釈放され,亡命先のメキシコで反乱軍を組織し,1956年12月にキューバ上陸。マエストラ山脈での 2年間のゲリラ活動ののち,1959年1月1日バティスタ政権を打倒した(→キューバ革命)。同 1959年2月首相に就任,以後革命政府の実質的最高指導者としてキューバの社会主義国家建設を指導。一党体制を築き,キューバの政治,経済,文化など諸側面を独裁的に支配した。また医療,教育,雇用などの分野で社会事業を拡大したが,キューバ経済は大幅な成長を遂げることはできなかった。1975年キューバ共産党の第1回党大会以後同党第一書記となり,1976年新憲法により国家評議会議長(国家元首)兼閣僚評議会議長(首相)に就任。1975~89年にはアンゴラ内戦アンゴラ解放人民運動を支援するなど,第三世界や非同盟諸国のリーダーとして頭角を現し,1979~82年非同盟諸国会議議長を務めた。2008年2月に国家評議会議長兼閣僚評議会議長を,2011年に共産党第一書記を退任し,ともに弟ラウルが後継した。(→キューバ史

カストロ
Castro, Inês de

[生]?
[没]1355.1.7. コインブラ
ポルトガル王子ドン・ペドロ (のちのペドロ1世〈厳格王〉 ) に嫁したスペイン貴族の娘コンスタンサの侍女。王子との悲劇的な恋愛のために国王アフォンソ4世に処刑された。悲恋ヒロインとしてポルトガル文学の題材にしばしば取上げられた。

カストロ
Castro, João de

[生]1500.2.7. リスボン
[没]1548.6.6. ゴア
ポルトガルの軍人,インド副王。 1538年インド副王ガルシア・デ・ノロニャとともにインドに渡り,その航海中に『リスボン・ゴア航海誌』 Roteirosを著わし,海洋学研究の先駆者の一人となった。 42年帰国,45年ジョアン3世 (敬虔王) からインド総督に任命され,ムーア人によるディユの包囲を解除した。その武勲により死の直前インド副王に任命された。

カストロ
Castro, José Maria Ferreira de

[生]1898.5.24. サルゲイロス
[没]1974.6.29. ポルト
ポルトガルの小説家。8歳で孤児となり,11歳の頃友人を頼ってブラジルのベレンに移住。マデイラ河岸のパラソ・ゴム園で働き,作家として重要な経験を積む。 1919年ポルトガルに戻り,雑誌『時』A Horaを創刊 (1922) 。『世紀』と『ABC』誌の編集者,『文明』誌などの主幹をつとめた。代表作『移民』 Emigrantes (28) ,『密林』A Selva (30) ,『羊毛と雪』A Lã e a Neve (47) ,『使命』A Missão (54) 。

カストロ
Castro, Juan José

[生]1895.3.7. ブエノスアイレス
[没]1968.9.3. ブエノスアイレス
アルゼンチンの指揮者,作曲家。生地で学んだのち,パリで作曲を学ぶ。コロン歌劇場で音楽監督をつとめたほか,ブエノスアイレスの交響楽団,ニューヨーク・フィルハーモニックを指揮。アルゼンチン音楽を国際的水準に高めた。 1951年歌劇作曲家としてベルディ賞受賞。

カストロ
Castro, Raúl

[生]1931.6.3. オルギン
キューバの政治家。フルネーム Raúl Modesto Castro Ruz。フィデル・カストロ国家評議会議長(国家元首)の実弟。1953年キューバ革命の口火となったモンカダ兵営襲撃に兄フィデルとともに参加。革命戦争,革命後の政府で重要な役割を果たしてきた。1959年革命軍事大臣,1960年副首相,1976年国家評議会第1副議長兼閣僚評議会第1副議長に就任。キューバ共産党中央委員会第2書記,および革命軍事相として兄フィデルに次ぐ地位を占め,兄を補佐した。2006年7月病床についた兄フィデルにすべての権力を暫定的に委譲されて国政を担っていたが,2008年2月兄が退任を表明し,正式に国家評議会議長兼閣僚評議会議長に就任した。

カストロ
Castro, Rosalía de

[生]1837.2. サンチアゴデコンポステラ
[没]1885.7.15. パドロン
スペインの女流詩人。生地の方言を用いた抒情豊かな『ガリシアの歌』 Cantares gallegos (1863) や,「近代派」の出現を予告した『サル河畔にて』 En las orillas del Sar (84) が代表作。

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デジタル大辞泉の解説

カストロ(Castro)

チリ南部、太平洋岸にあるチロエ島の都市。ロスラゴス州に属す。同島東岸の深い入り江に面する。カストロ港に並ぶ色とりどりの水上家屋が有名。イエズス会によって建てられた木造のサンフランシスコ教会は、2000年に「チロエの教会群」の名称で世界遺産(文化遺産)に登録された。

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百科事典マイペディアの解説

カストロ

キューバの政治家。ハバナ大学在学中から革命運動に参加。卒業後弁護士となり,独裁者バティスタを告発し,1953年武装反乱を起こしてモンカダ兵営を襲撃したが失敗して投獄され,1955年釈放後メキシコに亡命。1956年革命軍を率いてキューバに上陸,1959年バティスタ政権打倒に成功し(キューバ革命),ラテン・アメリカで最初の社会主義革命を成功させて,同年首相となる。1965年キューバ共産党設立とともに政治局員。1975年党第一書記。1976年国家評議会議長(元首)。ラテン・アメリカ革命の推進のみならず,アフリカの民族解放闘争も支援し,第三世界の指導的な政治家の一人である。1995年,2003年,日本を非公式訪問。弟ラウルも兄と行動を共にし,1962年以降副首相兼国防相,党政治局員兼書記局員,1976年国家評議会議長を歴任。2008年2月国家評議会議長を退任し,後継を弟ラウルに譲ることとなった。
→関連項目キューバゲバラサンチアゴ・デ・クーババティスタピノス[島]

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世界大百科事典 第2版の解説

カストロ【Américo Castro】

1885‐1972
スペインの歴史家,批評家。スペインと中南米の各大学で教えた後,プリンストン,ハーバード両大学でも教鞭をとった。スペイン文化の形成において,キリスト教徒,ユダヤ人,ムーア人の共存が決定的要素であることを説いた《スペインの歴史的現実》(1954)でスペイン史に新たな視点を導入し,それに反対する歴史家サンチェス・アルボルノスと大論争を展開した。またセルバンテス研究家としても高名で,《セルバンテスの思想》(1925)はその後の研究の指針となった記念碑的著作である。

カストロ【Fidel Castro Ruz】

1926‐ 
キューバの政治家で,同時に第三世界の指導的人物の一人。キューバ東部オリエンテ州のビランにある砂糖農園主の子として生まれる。生家が比較的富裕な階級に属していたため,カトリック系の小学校,高等学校で教育を受け,1945年にハバナ大学法学部に入学。少年時代のフィデルについて,弟のラウルは,兄は正義感の強い不屈な性格の持主であったと述べている。在学中に学生運動の指導者として内外の政治闘争に参加し,卒業後は弁護士となって政治犯貧乏人のために才腕をふるった。

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大辞林 第三版の解説

カストロ【Fidel Castro】

1926~ ) キューバの政治家。1956年以降の武装闘争を指揮、59年独裁政権を打倒しキューバ革命に成功。首相となり、キューバ共産党第一書記に就任。社会主義の建設を指導。

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367日誕生日大事典の解説

カストロ

生年月日:1500年2月27日
ポルトガルの軍人
1548年没

カストロ

生年月日:1527年9月30日
スペインのドミニコ会宣教師
1592年没

カストロ

生年月日:1858年10月14日
ベネズエラの独裁者,大統領(1901〜08)
1924年没

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世界大百科事典内のカストロの言及

【チロエ[島]】より

…面積8400km2,人口11万(1978)。島のおもな町はアンクドAncud(人口1万6000)とカストロCastro(人口1万4000)。大陸部海岸山脈の延長にあたり,山地は森林におおわれている。…

【キューバ】より

ラテン・アメリカ音楽ラテン・アメリカ文学
【政治,外交】

[政治構造]
 キューバの政治は唯一の政党であるキューバ共産党(PCC)の指導のもとで,国家機構を通じて行われている。革命後のキューバでは最高指導者であるF.カストロを中心とした個人的色彩の強い政権により政治が行われてきたが,1970年代に入って個人指導から党による指導へと方針が改められるとともに,党の強化がはかられ,75年に第1回共産党大会が開かれて党による指導が明確に打ち出された。党には政治局,書記局,中央委員会が置かれたが,書記局は第4回党大会(1991)で廃止され,現在は政治局と中央委員会の構成員が党幹部を形成している。…

【キューバ革命】より

…フィデル・カストロの指導のもとにキューバで行われた,ラテン・アメリカにおける最初の社会主義革命。
[反乱の開始]
 〈すべてはモンカダから始まった〉といわれるように,キューバ革命は,1953年7月26日,カストロが率いる反乱グループが東部オリエンテ州のサンチアゴ・デ・クーバ郊外にあるモンカダ兵営を襲撃することによって始まった。…

【ひげ(髭∥鬚∥髯)】より

…さらに時代を下ればアーサー王のひげがあり,《ローランの歌》はカール大帝(シャルルマーニュ)の白ひげを繰り返し歌っている。東ローマ皇帝コンスタンティヌス4世はPogonatus(鬚皇帝)とあだ名され,キューバ革命を成し遂げたF.カストロはEl Barbudo(髭男)と呼ばれている。 ひげを敬った古代ギリシア人は医神アスクレピオスに金の髯を与え,神話中最強の英雄ヘラクレスにみごとな髭をつけただけではない。…

【ラテン・アメリカ】より

…1898年の米西戦争でキューバはスペインから独立したが,その後キューバは合衆国の〈保護国〉となり,植民地的な支配が強まった。それに対する反発はやがてカストロが指導する1959年のキューバ革命となって現れ,キューバはその後社会主義革命を宣言してラテン・アメリカで最初の社会主義国家となった。
[混沌とした変革期]
 キューバ革命はこの地域の現状変革の動きにさまざまなかたちで影響を及ぼした。…

※「カストロ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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