出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
元朝成立以前のモンゴル帝国の首都。現在のモンゴルの首都ウランバートルの南西方、フフシン・オルホン川の右岸に位置する。カラコルムとは「黒い砂礫(されき)の地」の意。モンゴル最古のチベット仏教寺院として名高いエルデニ廟(びょう)の北隣に遺址(いし)があり、ともに観光地となっている。
モンゴル高原のほぼ中央部にあたるオルホン、トラ、セレンガ流域は良好な牧地が広がり、高原の東西南北の交通路線も交差して、匈奴(きょうど)、突厥(とっけつ)、ウイグルなど歴代の遊牧政権の拠点となった。11、12世紀にはケレイト王国の王庭が置かれ、ケレイトのワン・ハンを倒してモンゴル高原を制覇したチンギス・ハンも同様にこの地方を根拠地にした。都市としての起源は、チンギス・ハンの西方遠征中の1220年ごろに兵站(へいたん)基地が設けられ、のち金国打倒の遠征から帰還したオゴタイ・ハンが1235年に周壁と万安宮という中国風の宮殿を造営したというのが通説となっている。ここを中心に帝国各地に伸びる道路網と駅伝制度が維持され、世界各地の人々が往来した。元代になって大都(北京(ペキン))に首都が移ると、しだいに影が薄くなり、明(みん)代タタールとオイラートの東西対立によってまったく衰微し、清(しん)代にはトゥシェトゥ・ハン部に属する大寺院に変身した。1889年ロシアのヤドリンツェフによって発見され、その後、モンケ・ハン時代に創建された興元閣の扁額(へんがく)がみつかって確実となった。1948、49年ソ連・モンゴル調査団によって詳しい報告がなされている。
[杉山正明]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
モンゴル帝国の首都。単に和林とも書く。オルホン川上流右岸,モンゴル中部,オボルハンガイ・アイマク(州)のハルホリン・ソムの中心地付近に遺跡がある。この付近は最良のステップが広がっていることもあって,古来多くの遊牧国家の根拠地が置かれた。オノン,ヘルレン両河流域に興ったモンゴル帝国も,やがてこの地に中心地を移し,1235年オゴタイ・ハーンによってカラコルムに都城が築かれた。宮殿,役人の邸宅,倉庫が立ち並び,征服地から連れてこられた種々の民族の職人も居住し,各地の使節や商人が滞在し,これらの人々のため寺院,教会が存在した。また東西南北の各門に市がたち,各門から各地に道路が走っていた。ただしハーンは遊牧の習慣を守り,通常は城の周辺を季節的に移動し,たまに城内に入るにすぎなかった。約30年後フビライが大都(北京)に遷都してからは,和林行省の所在地として地方都市となり,のち一時北元の首都となったが,やがてモンゴル最高のラマ寺エルデニ・ズー建立の際,遺物がその建築材料として利用され,今はただ石製亀趺が残るのみである。
執筆者:吉田 順一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
モンゴル帝国の都。第2代オゴデイが建造し,第4代モンケまで首都として繁栄した。現モンゴル国のオルホン川東岸に都城址がある。第5代クビライが首都を大都に移し,帝国の中心ではなくなるが,以後もモンゴル高原の拠点都市として存続した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…これら定住地の行政に経験のないモンゴル人を補佐して,契丹人の耶律楚材(やりつそざい)やホラズム出身のヤラワチなどが重要な役割を果たした。オゴタイ・ハーンは使節,役人などの往来や貢物その他の物資の運搬の安全・迅速さを確保し,帝国の統一を確実なものとするために,一日行程の間隔で設置し,宿舎,人員,馬を備えた駅を結ぶ駅伝網(ジャムチ)を作り上げ,この駅伝路の起点となり帝国の首都となったカラコルムを造営した。ただし大ハーン自体はそこに常駐せず,通常はその周辺の四季の駐営地を移動していた。…
※「カラコルム」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新