カルル1世(読み)カルルいっせい[たいてい](その他表記)Karl I, der Grosse; Charlemagne

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「カルル1世」の意味・わかりやすい解説

カルル1世(大帝)
カルルいっせい[たいてい]
Karl I, der Grosse; Charlemagne

[生]742/743.4.2.
[没]814.1.28. アーヘン
カロリング朝第2代のフランク王 (在位 768~814) 。シャルルマーニュとも呼ばれる。ピピン (小ピピン) の長子で,父の死後,弟カルロマンと共同統治,771年から単独の王となる。アキタニア (アキテーヌ) の鎮定から外征を開始し,774年ランゴバルド王国を滅ぼして,北イタリアを支配。特に東方経略に力を注ぎ,前後5回,30年にわたる征戦でザクセン人を服属させたほか,787年バイエルン族を征服,799~804年にはアバール人を討ち,ドナウ川の中流域にまで領域を広げた。スラブ族とはエルベ,ザーレ川で境を接し,バイエルン地方を完全に支配下に収める一方,ピレネーにもイスラム教徒に対する辺境防塞を設けた。このような征服事業をふまえて,教皇レオ3世は,800年の降誕祭 (クリスマス) 当日に,ローマでカルルに西ローマ皇帝の冠を授けた。これは理念上,西ローマ帝国の復興を意味し,のちの神聖ローマ帝国先駆をなすが,カルルの統治の中心はあくまでフランク王国にあった。グラーフ (伯) と呼ばれる地方長官の配置や,巡察使の制度などによって,その行政組織を整える一方,グレゴリウス (グレゴリオ) 聖歌の復活,ローマ典礼の採用,教会会議の開催,ビザンチン教会との教義をめぐる争いの先頭に立つなど,教会改革にも尽力。また学芸の振興にも意を用い,いわゆる「カロリング・ルネサンス」を現出した。蛮族 (ゲルマン民族) に対する勝利者,キリスト教護持の戦士,聖者として民衆の間にも記憶され,シャルルマーニュ伝説叙事詩ローランの歌』として後世に伝えられている。

カルル1世
カルルいっせい
Karl I

[生]1887.8.17. ペルゼンボイク城
[没]1922.4.1. クインタドモンテ
最後のオーストリア皇帝 (在位 1916~18) ,カーロイ4世としてハンガリー王 (在位 16~18) 。第1次世界大戦中,連合国側と和平交渉に入り,1918年 10月「国家危機の切迫にあたり」と題する宣言を発してハプスブルク帝国を民族の自治に基づく連邦に改組しようと試みたが,時すでに遅く,革命運動を前に統治権を放棄した。 21年スイスに逃れ,ハンガリー王位の回復をはかったが成功せず,連合国側によってマデイラ島に移された。

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367日誕生日大事典 「カルル1世」の解説

カルル1世

生年月日:742年4月2日
フランク王(在位768〜814),神聖ローマ皇帝(在位800〜814)
814年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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