ティグリス川東岸にあったパルティアおよびササン朝ペルシア時代の都市。前2世紀後半,パルティアのメソポタミア進出にともない,セレウキアの対岸の村に軍事的根拠地として建設された。その後,アルサケス朝の冬宮がおかれ,セレウキアが破壊された(後165)のちはバビロニアの中心都市となり,古代東西交通路の要衝として繁栄した。パルティアを打倒したアルダシール1世は226年クテシフォンで即位し,ササン朝帝国の首都をここに定めた。637年イスラム軍に占領され,アッバース朝の新都バグダードが成立(762)してから荒廃した。遺跡はバグダードの南東26kmにあり,ターク・イ・キスラー(〈ホスローのアーチ〉の意)と呼ばれるホスロー1世の宮殿遺構が有名である。
執筆者:佐藤 進
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メソポタミアの古代都市遺跡。現在イラク共和国に属し、バグダードの南東約40キロメートル、ティグリス川の左岸にある。紀元前129年ごろパルティアの冬の都となり、対岸のギリシア人の商業都市セレウキアとともに、ペルシア人の政治・軍事都市として発展した。ササン朝ペルシア時代は終始その首都であった。パルティア時代からしばしばローマ軍の侵略を受け、637年アラブ人に占領され破壊された。1928~32年ドイツ東洋学会が発掘した。現在残っているのは、ササン朝ホスロー1世(在位531~579)時代の宮殿の一部と思われる丸屋根・れんが製のターク・イ・キスラ(ホスローのアーチ)だけであるが、高さ37メートルあり、昔日の偉容をしのばせるササン朝の代表的建築物である。
[小玉新次郎]
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パルティア(アルサケス朝)およびサーサーン朝の首都。ティグリス川左岸に面し,右岸のセレウキアとあい対した。前129年頃パルティアの冬の都,のちにはローマ帝国との戦いの軍事基地となった。サーサーン朝時代に首都として一層繁栄したが,7世紀にアラブ・ムスリム軍によって破壊された。
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…治世末に諸王子間に王位継承の争いが起こり,以後2人ないし3人の王が分立する長い内乱時代(77か78‐147)に入った。その間にトラヤヌスのパルティア遠征(113‐117)が行われ,セレウキアと首都クテシフォンがローマ軍に占領された。2世紀後半にもセレウキアとクテシフォンは2度にわたってローマ軍の攻略を受けた。…
※「クテシフォン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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