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「グラッドストン」の意味・読み・例文・類語
グラッドストン(William Ewart Gladstone)
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「グラッドストン」の意味・わかりやすい解説
グラッドストン
ディズレーリとともに英国議会政治の黄金時代を代表する政治家。初め保守党に属し,1833年下院議員となり,1843年以後商務総裁,植民相を歴任。穀物法廃止に際して首相ピールを支持し,自由党に接近。3度蔵相(1852年―1855年,1859年―1865年,1865年―1866年)となり自由貿易,減税政策を推進し,財政家として名をあげた。1867年自由党党首となり4度組閣。1868年―1874年第1次内閣ではアイルランド国教を廃止し,教育・軍隊・司法制度を改革,第1次アイルランド土地法・秘密投票法などを成立させた。総選挙に敗れ引退したのち,選挙区のミドロージアンでディズレーリの帝国主義を批判して政権を獲得。1880年―1885年第2次内閣では第3次選挙法改正を断行。第3次(1886年)・第4次(1892年―1894年)内閣ではアイルランド自治法案の成立に努力したが失敗して政界から引退した。
→関連項目自由党(英国)|ビクトリア[女王]|ラッセル
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グラッドストン
Gladstone, William Ewart
[生]1809.12.29. リバプール
[没]1898.5.19. ウェールズ,ハーデン
イギリスの政治家。4度にわたって首相をつとめた。オックスフォード大学に学び,1832年下院議員となる。最初はトーリー党に所属したが,のちピール派としてトーリー党を離脱。 52~55年アバディーン連立内閣の蔵相,59~65年第2次パーマストン内閣の蔵相,65~66年ラッセル内閣の蔵相などをつとめ,自由党 (ホイッグ党) 下院指導者となった。 67年末ラッセルの引退後,党の最高指導者となり,以後保守党のディズレーリ,ソールズベリー (侯) と交互に政権を担当する典型的な二大政党政治を展開した。 68~74年の第1次グラッドストン内閣は,69年アイルランド国教会制廃止法,70年第1次アイルランド土地法,フォースター教育法,71年労働組合法,72年無記名投票法などの改革立法を成立させた。総選挙に敗れいったん引退したのち,ミッドロージアンの選挙区でディズレーリの帝国主義政策を非難する有名なキャンペーンを行い,80年総選挙で勝利。 85年までの第2次内閣では,1881年第2次アイルランド土地法,84年「第3次選挙法改正法案」を成立させた。 86年の第3次内閣はアイルランド自治法案を提出して敗れ,短命に終った。 92~94年の第4次内閣において再度提出された同法案も上院で否決され,60年以上にわたる政治生活から引退した。
グラッドストン
Gladstone
オーストラリア,クイーンズランド州中部東岸,ロックハンプトンの南東 131kmにある港町。名称はイギリスの政治家 W. E.グラッドストンに由来。石炭の主要積出港の一つで,おもに日本へ輸出される。大規模な火力発電所がある。ウェイパからのボーキサイトによるアルミナ精錬所があり,タスマニア州のベルベイおよび海外へ輸出される。港の出入貨物量は同州最大。人口2万 4205 (1991推計) 。
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グラッドストン
William Ewart Gladstone
1809~98
イギリスの議会政治の黄金時代を代表する政治家,首相(在任1868~74,80~85,86,92~94)。リヴァプールの豪商の家に生まれ,オクスフォード大学の出身。1833年保守党所属の下院議員となり,穀物法廃止でピールを支持して保守党を離れ,自由党に参加。52年以降3度蔵相を務め,自由貿易の推進,減税政策によって財政家として名をあげた。67年自由党党首となり4度組閣。第1次内閣ではアイルランドの国教制度の廃止,秘密投票法などを成立させたほか,教育,軍事,司法の改革を行った。74年総選挙に敗れ下野。ディズレーリの帝国主義政策を激しく批判して,政権を再度獲得し,第2次内閣では第3次選挙法改正を実現させたが,第3次内閣でアイルランドの自治をめぐって党の分裂を招いた。94年アイルランド自治法案が否決され,政界から引退。爵位を固辞して「大平民」で通した。
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グラッドストン
William Ewart Gladstone
1809〜98
イギリスの政治家
初め保守党に属していたが,1847年自由党に転じ,52年蔵相,68年首相となる。以後4回にわたり組閣し,ディズレーリの率いる保守党と対抗しながら自由主義的政策を実行し,選挙法改正(1884年,農業労働者への選挙権)やアイルランド問題の解決(1870,81年のアイルランド土地法)に努力した。対外的には平和主義外交を唱えたが,帝国主義的時流には抗しきれず,1881年アフガニスタンを保護国化し,82年アラービー=パシャの乱を鎮圧し,エジプトを事実上支配下に置いた。著書に『ホメロス研究』(1858)などがある。
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グラッドストン【William Ewart Gladstone】
1809‐98
19世紀のイギリス自由主義を代表する最大の政治家。西インドに奴隷制農場を営むリバプールの大貿易商の子に生まれ,イートン校を経て1832年にオックスフォード大学を卒業。同年,第1次選挙法改正後最初の選挙に保守党から当選,以後95年にいたるまで下院議員をつとめた。敬虔なキリスト教徒で,政治家としても生涯キリスト者の信念にもとづいて行動したが,とくに青年時代は,熱烈なトーリー国教主義者で,38年に《国家と教会との関係》を著し,国家と英国国教会の不可分性を力説した。
グラッドストン【Gladstone】
オーストラリア,クイーンズランド州中部の工業・港湾都市。人口2万3000(1991)。ブリズベーンの北西530km(道路距離)にあり,1960年代以来の鉱業開発に伴い急成長した。モウラやブラックウォーターなどの炭田を後背地に持ち,石炭輸出港および火力発電所がある。またアルミナ精錬所があり,同州北部のウェーパ産のボーキサイトを精錬する。港湾取扱量は同州最大である。1854年開基。【谷内 達】
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世界大百科事典内のグラッドストンの言及
【自由党】より
…50,60年代の自由党は,自由貿易主義の旗の下に,今や完全に保守党を圧倒したが,党の最高指導者は,なおホイッグ貴族のJ.ラッセルとパーマストンであった。だが,65年にパーマストンが死に,67年にW.E.グラッドストンが党首に就任するに及んで党の性格は一新され,党勢の伸張もその極点に達した。68年から74年にかけての第1次グラッドストン内閣の時代は,古典的自由主義体制の黄金時代で,自由貿易は完成の域に達し,自由と節約は国民全体の信条となった。…
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