ポーランドの政治家。ガリツィア地方クロスノの労働者の家に生まれ、鍛冶(かじ)屋の徒弟、ついで精油労働者として労働運動に参加、1926年に共産党に加入した。いくつかの労組書記として活躍し、1931年には党中央委員となり、二度にわたって投獄された。第二次世界大戦中は労働者党(共産党)の指導者の一人として国内で対独抵抗闘争を組織した。1943年以降党書記長に就任し、戦後の統一臨時政府に副首相として入閣したが、ポーランド独自の道を主張したため、1948年に「右翼的、民族主義的偏向」を理由に解任され、1949年には党からも追放、1951年に逮捕された。スターリン死後の雪解けとともに、1954年に釈放され、1956年に復党し、民主化を求める国民的声望に推され、10月の党中央委総会で、ソ連の政治的・軍事的圧力を排して党第一書記に選出された。その後、対ソ関係の平等化、消費財の増産、教会との和解などの政策を打ち出したが、経済再建に失敗し、しだいに国民との溝を深め、1970年のバルト海地方暴動ののち党第一書記を辞任、翌1971年には党中央委員をも解任された。しかし後任者ギエレクの失政によりその人気も回復し、1982年9月1日に病死した際には、国葬に準じる盛大な葬儀が行われた。
[木戸 蓊]
ポーランドの政治家。正しくはゴムウカと呼ぶ。ジェシュフ県クロシノの工員の家に生まれる。錠前工として出発し,労働組合運動に参加,1926年に共産党に加入。26,32-34,36-39年投獄される。1934-36年ソ連に留学。39年ドイツ軍のポーランド侵入とともにソ連に逃れる。42-44年国内で共産党系の抵抗運動を指導。1943年ポーランド労働者党(共産党の後継組織。現,統一労働者党)書記長,45年臨時政府副首相兼再獲得領土相として共産党政権の確立に貢献する。48年〈右翼民族主義的偏向〉の罪で解任,49年党を除名され,51-54年投獄される。56年名誉回復され,ポズナン暴動後党第一書記に再選される。当初自由化,経済改革,自主外交に意欲的であったが,59年ころから柔軟性を失う。知識人を弾圧,68年の〈3月事件〉に際しては反ユダヤ主義的扇動を許す。経済的には指令経済体制に固執し,停滞を招く。外交的には70年12月西ドイツとの国交樹立という功績を残す。その直後にバルト海沿岸都市の労働者の蜂起(いわゆる〈12月事件〉)によって失脚。
執筆者:伊東 孝之
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…社会党は1948年12月に労働者党に吸収されて統一労働者党となり,ポーランド農民党は労働者党の衛星政党であった農民党に吸収されて統一農民党となった。ポーランド統一労働者党内では民族主義的偏向批判が盛んとなり,書記長ゴムウカ(ゴムルカ)をはじめとして戦争中国内で戦った党活動家の多くが追放された。代わって全権を握ったのは中央委員会議長ビエルトBolesław Bierut(1892‐1956)を先頭とするモスクワ亡命派である。…
…38年コミンテルンの指令により解散し,ソ連に亡命していた重要幹部はほとんど粛清された。42年生残り幹部を中心にポーランド労働者党として再建され,ナチス占領下の国内で抵抗運動を行った(1943年10月以降,書記長ゴムルカ)。44年からソ連軍によって解放された地域の政権党として登場し,48年ポーランド社会党と合同,現在の党名を名のった。…
※「ゴムルカ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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