ドイツ生まれのアメリカの動物学者、遺伝学者。フランクフルト・アム・マインの生まれ。1900年ハイデルベルク大学を卒業。1909年ミュンヘン大学助教授としてヘルトウィヒに師事。1914年カイザー・ウィルヘルム生物学研究所(現、マックス・プランク研究所)部長。1921年から副所長。1936年、ナチスによりドイツを追われてアメリカに渡り、カリフォルニア大学教授となる。1948年名誉教授。初めナメクジウオの発生や分類を研究していたが、クロミディア(塩基性色素により核と同じに濃く染まる細胞質内の粒子)の研究などを通じて遺伝学に興味をもつようになった。ヨーロッパ各地および日本などから集めたマイマイガの地方種間に大規模な交配実験を行い、性比の変動や間性の出現率の相違などから染色体上にある雄性遺伝子と、細胞質を通じて母から子に伝えられる雌性決定因子との均衡によって性が決まること、これらの強さは異なった地方種の間で異なることなどを明らかにし、これに基づいて遺伝の生理学説を唱えた。アメリカに移ってからは、ショウジョウバエを用いて遺伝子と表現形質との関係を追究した。1924~1926年(大正13~15)来日、東京帝国大学農学部で講義し、日本の遺伝学の発展に貢献した。著書は多数あるが、代表的な著作に『性決定の機構と生理学』(1920)、『遺伝の生理学説』(1927)、『理論的遺伝学』(1955)などがある。
[田島弥太郎 2018年7月20日]
ノルウェーの岩石・地球化学・結晶化学者。スイスのチューリヒに生まれる。ノルウェーのクリスティアニア(現、オスロ)大学を卒業し1914年母校の教授となる。1928年ドイツのゲッティンゲン大学の教授となったが、1935年にはナチス政府に追われてオスロに戻った。第二次世界大戦中の1942年、ノルウェーに侵入したドイツ軍に捕らえられたが脱走してイギリスに渡り、1946年ふたたびオスロに戻って、翌1947年没した。1911年、23歳の若さでオスロ周辺の接触変成岩に関する大著(『クリスティアニア地方における接触変成作用』Die Kontaktmetamorphose im Kristiagebiet)を発表、化学平衡論に基づく近代変成岩石学の基礎を確立した。1917年ごろから近代的な地球化学や結晶化学の建設に努め、元素の結晶化学的性質がその地球化学的挙動を支配するという考えを樹立した。700ページに及ぶ大著『地球化学』Geochemistryは生前未完に終わったが、ムーアAlex Muirの編集によって1954年に出版された。
[橋本光男]
ドイツの化学工業家。ベルリンに生まれる。ハイデルベルク大学でブンゼンに化学を学んだのち、1881年エッセンで父の経営する化学工場に入り、テルミット法(アミノテルミー法、ゴルトシュミット法ともいう)を発明した。
アルミニウム粉末を金属酸化物に混合し点火すると、アルミニウムと金属酸化物の酸素とが高温を発しながら結合し、金属酸化物が還元され、高温のため溶融状になった金属が得られる。このことを利用したのがテルミット法で、クロム、コバルト、鉄、マンガンなどの冶金(やきん)に利用され、それぞれの炭素を含まない金属が得られる。この方法は金属の溶接にも使われ、鉄道レールなどの溶接に利用される。
[道家達將]
19世紀後半のドイツ商法学界を代表する学者。ハイデルベルク大学教授を経て、北ドイツ同盟高等商事裁判所の判事を務めたのち、ベルリン大学教授となり、在職中に没した。商法の研究に歴史的方法を取り入れ、その歴史的方法と解釈学的方法との融合をみごとに果たし、商法学の発展に寄与した功績は高く評価されている。彼の代表的な業績は、『商法提要』(未完成)の冒頭を飾る「一般商法史」であり、それは希代の傑作としての誉れが高い。そのほか、彼が刊行した『総商法雑誌』Zeitschrift für das gesamte Handelsrecht(略称ZHR)は、商法学の研究にとって不可欠の雑誌である。彼は学者のほか、裁判官としても活躍し、またドイツ統一運動と法の統一実現のためにも尽力したが、他方、ユダヤ人として人種差別問題に心を痛めたことが伝えられている。
[戸田修三]
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スイスに生まれ,のちにノルウェーの市民権を得た地球化学者。地球における元素の存在度,分布,分布を支配する法則性を追究し,地球化学を確立した。1905年ノルウェーのクリスティアニア大学(現,オスロ大学)に入学,鉱物学,地質学などを学び,14年同大学教授となった。接触変成岩研究に熱力学を導入して鉱物学的相律を基礎づけ(1911),これを広域変成岩研究にも適用した(1912-21)。20年ころから多数の鉱物の系統的なX線解析を行い,《元素の地球化学的分配則》(8巻,1923-27)にまとめ,結晶化学も発展させた。29年ドイツのゲッティンゲン大学教授になり35年ナチスに追われオスロに戻るまで,各元素の定量的地球化学的研究,隕石の研究等をすすめ,《元素の地球化学的分配則》第9巻(1938)にまとめた。第2次大戦中,ナチス占領下のノルウェーを逃れイギリスに渡り,土壌の地球化学的研究等を続けた。遺稿が補足・編集され《地球化学》(1954)となった。
執筆者:北林 雅洋
ドイツの商法学者。ダンチヒのユダヤ商人の子として生まれた。1860年ハイデルベルク大学教授。70-75年ライプチヒ高等商事裁判所判事,75年からベルリン大学教授。〈商法の普遍史〉を志し,現代商法の起源を中世商人,とくに中世海商のうちに見いだして,商法史におけるゲルマン法の重要性を指摘した。また商法学を,現実の取引のあり方を基礎とした帰納的方法によって基礎づけようとした。その研究は破産法や民事訴訟法にも及び,ドイツ民事訴訟法典(1877公布)の起草など多くの立法事業にも関与して,ドイツ法の近代化・統一化に寄与した。1858年には,現在でも最も権威ある商法学雑誌《全商法雑誌Zeitschrift für dasgesamte Handelsrecht》を創刊した。主著《商法提要Handbuch des Handelsrecht》(1864)。
執筆者:長尾 龍一
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スイス生まれのノルウェーの地球化学者.ノルウェーの王立フレデリック大学(1939年にオスロ大学に改称)で学位を取得して,1914年同大学の鉱物学教授,1929年ドイツのゲッチンゲン大学に移ったが,ユダヤ系だったのでナチスのユダヤ人迫害により,1935年にはふたたび母校の大学へ戻った.1910年代まではおもに変成岩の鉱物を研究し,1911年鉱物学的相律を導き出した.第一次世界大戦中には政府の資源委員長として資源探査・開発に携わり,1920年代以降は地球化学という新しい学問分野の体系化を精力的に推し進めた.X線を用いた鉱物の結晶構造解析と岩石の成分分析にもとづいて,イオン半径の確定とそれを基礎にした結晶化学研究,元素の存在度の確定と地表における元素の定量的な循環過程の解明,宇宙における元素の存在度の解明などを行い,それらの成果を“元素の地球化学的分配則”と題する一連の論文(No.1~9)として発表していった.“現代地球化学の父”ともよばれている.
出典 森北出版「化学辞典(第2版)」化学辞典 第2版について 情報
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出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…したがって,今ある一つのイオン半径の絶対値がわかると,他のイオン半径は格子間隔とその値とから計算することができる。V.M.ゴルトシュミットは1927年に,さきにフッ化物および酸化物の光学的性質から求められたF-=1.33Å,O2-=1.32Åを用いて,大半のイオン半径を計算し,現在でもしばしば用いられる。一方,L.ポーリングは,量子力学に基礎を置いてイオン半径を計算し,ゴルトシュミットの値とよく一致した結果を得た。…
…そして岩石学の主流は記載的岩石学から成因的岩石学へと移った。その発展に貢献したのはV.M.ゴルトシュミット,P.E.エスコラ,N.L.ボーエンなどである。前2者は主として変成岩に化学平衡論を適用して変成岩理論を確立した。…
※「ゴルトシュミット」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
各省の長である大臣,および内閣官房長官,特命大臣を助け,特定の政策や企画に参画し,政務を処理する国家公務員法上の特別職。政務官ともいう。2001年1月の中央省庁再編により政務次官が廃止されたのに伴い,...
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