西部地中海に位置する島で,地中海ではシチリア島につぐ面積をもち,付近の属島とともにイタリア共和国の一州をなしている。英語ではサルディニアSardiniaと呼び,面積2万4090km2,人口165万(2004)。主都はカリアリ。イタリアの各州はそれぞれ自然条件,歴史的背景の違いによって地方色が強く,第2次大戦後の共和国憲法のもとで,かなりの程度の州自治が実現されているが,サルデーニャはその島嶼としての孤立性と14世紀から4世紀間にわたってスペイン治下にあったという歴史的事情から,イタリアの他の州とはきわめて異なる社会・文化をもっている。北隣のコルシカ島(フランス領)のほうが歴史的にイタリア半島部と文化的関係が深かったこともあって,コルシカの言語の方がサルデーニャ語よりもずっとイタリア語に近い。また,1718年にトリノを都とするピエモンテがサルデーニャ島を領有してサルデーニャ王国を名のったため,ピエモンテとの結びつきを強め,勉学あるいは就労のために島外に出る場合,ピエモンテに行く場合が多かった。
地質学的に見ると,サルデーニャは隣のコルシカ島とともにすでに古生代に陸化した部分を含んでいる。カンブリア紀の岩石はイグレシエンテ山地に見られ,ここでは各地に花コウ岩の貫入が見られる。ヘルシニア造山運動の影響は広範に見られるが,現在のサルデーニャの地形は谷によって分断されたいくつかの山塊や高原からなっている。島の約5分の4は南東部のサラブ山地,東部のジェンナルジェントゥ山地,北部のガルーラ山地,および中央部のマルギネ山脈などの山塊で占められ,最高部はジェンナルジェントゥ山地のマルモラ山(1829m)である。これらの主要山地と南西部のイグレシエンテ山地との間にカンピダーノ平野が広がり,島の全面積の約10分の1を占めている。海岸線はかなり入り組んでいるが,急な崖をなしている部分が多く,天然の良港は少ない。
気候は典型的な地中海式気候であり,年間降水量も平均500mm前後であるが,標高1000mを超すと冬は寒冷であり,また降水量も年間1000mmを上まわるようになる。植生に関しても地中海地域に共通する常緑樹や灌木が見られるが,島嶼としての孤立性に由来する固有の種もいくつか見られる。
サルデーニャ経済において重要な比重を占めているのは,産業別人口から見れば依然として農牧業である。その乾燥した気候のために牧畜においては羊の放牧が主体である。農業地帯として最も重要なのはカンピダーノ平野であるが,これは20世紀初頭に着手された干拓事業によってマラリアの危険が除かれ,豊かな農業地帯になったものである。現在も州政府によって土地改良や灌漑施設の改良など農業発展のための事業がなされているが,集約的農業の発展に成功しているのは,沿岸部,平野部,都市周辺部などに限られ,内陸の大部分では生産的土地利用の衰退が進行している。牧畜に従事していた者のかなりがトスカナなど半島部の土地条件のより良い所に移住して牧羊業を営んでいる。イグレシエンテ山地の鉛,亜鉛,石炭などの鉱山業は19世紀中葉以降,サルデーニャ経済にとって重要な役割を果たしてきたし,1938年につくられた石炭都市カルボニアCarboniaのように一時的にはブームを引き起こしたものもあったが,現在では建築材料の切出しやカリアリ付近における製塩などがあるにすぎない。
50年以降,本格化したイタリア南部開発事業の中でサルデーニャにも巨額の投資がなされ,サルデーニャの社会および経済は大きな変化をとげた。道路網は整備され,いくつかの工業拠点がつくり出されたし,土地改革によって寄生的大土地所有階層の社会的な力はなくなった。しかし,南部開発政策の成果にうるおっているのは,地理的に見ればごく限られた地帯であり,社会的に見てもごく限られた部分である。サルデーニャ全体としての人口は50年以降停滞しているが,農村部からの人口流出はたえず続き,人口の増大が見られるのはいくつかの限られた都市にすぎない。そしてこのような都市にはかつての大土地所有者に代わって,行政・官僚機構と利害関係で密接に結びついた不動産業,商業などに従事する新しい寄生的支配階層が形成されている。
サルデーニャ経済の新しい局面として注目されるのは,観光業の発達である。60年代の半ばごろから,沿岸各地において観光開発がさかんになり,特に夏にはたくさんの観光客が訪れるが,イタリアの他の地域における場合と違って,地元資本よりも半島部や外国の資本がこの観光開発において大きな役割を果たしている。
→メッツォジョルノ
旧石器時代に属するものは今までのところ発見されていないが,新石器時代以降に関しては,石器のみでなく,多くの村落址や人工の洞窟が発見されている。人類学的にこれらの遺跡を残したのは長頭の地中海人種であったことが確認されている。青銅器時代にはサルデーニャに広くヌラーゲ文明が展開された。ヌラーゲnuragheは防御的な性格をもった居住址で,しっくいやセメントを用いない石造の建築物で,サルデーニャ全体で6000以上のものがほぼ完全な形で残存しており,特にサッサリとオリスタノ地方に多い。時期としては前2000年から,ローマ人の侵入までのものがあるが,最も数が多く,その構造も2階ないし3階の複雑なものが見られるのは,前6世紀カルタゴ人の植民が始まる直前の時期である。ヌラーゲ文明は同時にドルメンなどの巨石文化の遺跡を伴っている。ヌラーゲ文明は,おそらくは奉納の目的のために作られたと考えられる多数の小さな青銅の像を残している。これらの像から宗教的および軍事的規律が強かった当時のサルデーニャ社会,特に支配階層の生活が知られる。
前7世紀ごろからフェニキア人,ついで彼らが建国したカルタゴが沿岸部にいくつかの植民都市をつくり始めた。しかし,内陸部にはサルデーニャ土着の要素が強く残っていた。カルタゴ人はエトルリア人の協力を得てギリシア人の植民の試みを退けるのに成功した。サルデーニャという島の名前はギリシア人による呼称サルドSardōに由来している。
カルタゴ人による沿岸部の支配は前4世紀以降は,土着民の反乱とローマ人の侵入によって脅かされるようになり,第1次ポエニ戦争終結時の前241年ローマの支配下に入った。その後はカルタゴ系の貴族や大土地所有者がカルタゴ海軍の援助を受けて何度か反乱を起こしたが,カエサルの頃(前1世紀中葉)ローマ人の支配力は内陸部にまでゆきとどくようになった。カリアリの起源はフェニキア人による植民都市であったが,ローマ帝政期にはローマ人によるサルデーニャ支配の中心地になった。ローマ帝国が衰運に向かうとともに,繁栄していた諸都市も衰退し,バンダル王国(455),ビザンティン帝国(534)などがあいついで島を支配した。711年以降はアフリカやバレアレス諸島などからのイスラム勢力によって沿岸部はほぼ3世紀にわたって支配されるようになった。内陸部のキリスト教勢力は11世紀になってようやく団結して,イスラム勢力と戦うようになり,1066年にカリアリのトルキトリオ・ディ・ラコン・ウナリ家の支配が確立した。同時にこの頃からピサ勢力の浸透が始まったが,やがてジェノバ勢力もピサに対抗して商業面および政治面でサルデーニャへの浸透をはかるようになり,13世紀にはピサおよびジェノバの両共和国の争いに,教皇,神聖ローマ皇帝,アンジュー家なども加わって,サルデーニャの政治状態はまったく混乱したものとなった。結果として,多くの都市がジェノバの影響下に入り,サッサリをはじめ,これらの都市の多くは自治都市として憲章をもつようになった。1326年以降はアラゴン王家が島を支配して封建化をはかったが,自治都市はそれに対して抵抗し,アラゴンの支配が全島に実質的に及ぶのは15世紀中葉になってからのことである。支配勢力としてアラゴンおよびカタルニャ起源の貴族階層が出現するようになったが,スペインのフェリペ2世はサルデーニャ人の権利を擁護し,行政組織を改め,また農業の振興をはかった。
スペイン継承戦争の結果,ユトレヒト条約(1713)でサルデーニャはオーストリアに,そしてロンドン条約(1718)によってサボイア家の支配するところとなり,ここにサルデーニャ王国が成立した。
フランス革命とそれに続くナポレオン戦争に際して,サルデーニャはフランス軍を撃退することに成功したが,これを契機に反封建主義およびピエモンテ勢力の支配に抵抗する運動が頻発するようになり,1835年の封建制の廃止に至るまでの一連の改革がなされるようになった。48年以降は鉱山開発などのための企業もいくつかおこって,サルデーニャの近代化が開始された。
執筆者:竹内 啓一
サルデーニャの文学は,この特異な島の風土と歴史,そこに生きてきた人々の独特な生活形態とを抜きにしては,ほとんど成立しないと言ってもよい。換言すれば,サルデーニャの文学は,この島をあたかも孤立した小宇宙であるかのごとくにみなして,そこに住む人々の気質と風俗とを描いてきた。前1500年ごろまでさかのぼるとされるヌラーゲ文明の時代から始まり,サルデーニャ島は,フェニキア人やローマ人に征服され,中世末期にはアラブ,ピサやジェノバの都市国家に海上から侵入され,下ってはアラゴンやサボイア家の所領となるのであるが,それらの外界からの圧制下において自分たちの文学を--とりわけ外国の言語で--作りあげなかったことを,サルデーニャの人々は強い誇りにしている。彼らは自分たちの歴史のなかに,いうなれば〈沈黙の文学〉を書きつづけてきたことを,芸術的感性と思想の出発点にしている。それゆえ,文学作品化される以前の彼らの詩心を探るためには,サルデーニャ語による民衆詩の解明が必要になり,その意味で民俗学と文学の両域にまたがる研究と関心は盛んである。
共通イタリア語によるサルデーニャ文学は,1861年のイタリア統一後に,地方主義リアリズム文学の一環として現れ,女流作家G.デレッダが膨大な長・短編小説群を著し,1926年度ノーベル文学賞を授けられたことによって,この島の特異な風土と人心が一挙に明るみに出された。詩においては,カルドゥッチの流派に属したサッタSebastiano Satta(1867-1914)が,デレッダと同郷のヌオロ周辺における民俗の心を歌いあげた。イタリア王国への併合は,しかしながら,同時にサルデーニャ州自治権要求の運動を呼び起こし,1920年にルッスEmilio Lussu(1890-1975)がサルデーニャ行動党を創設した。ルッスは反ファシズムの闘士であり,政治運動と同時に《高原での一年》(1938)など文学活動も展開した。ルッスと同じくカリアリ近郊の出身であるデッシGiuseppe Dessi(1909-77)は,第2次大戦以前にはプルースト流の記憶を遡行する小説を発表し,解放以後はリアリズムの作風に転じて,《雀》(1953),《影の土地》(1972)などで,サルデーニャの風土と人心の葛藤を描いた。また,文盲の羊飼いの子として生まれ言語学者にまで成長を遂げた,新進の作家レッダGavino Ledda(1938- )は《父--パードレ・パドローネ》(1975),《鎌の言葉》(1977)を著して,この島と住民がなおも複雑な問題をはらんで生活している現実を明るみに出した。他方,サルデーニャ島を内側からではなく,外から光を当てて分析し文学化した作品のうち最も重要なものに,D.H.ロレンス《海とサルデーニャ》(1921)とE.ビットリーニ《幼年期としてのサルデーニャ》(1952)がある。
執筆者:河島 英昭
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
地中海第2の島。早くからエーゲ文明の影響が波及。フェニキア人ついでギリシア人も植民。前540年以来カルタゴ領,前227年ローマの属州となる。古代末ヴァンダル,ついで東ゴート,さらに6世紀中頃ビザンツ帝国に帰属。8世紀頃から事実上独立して4地方に分立した。11世紀初めイスラーム勢力の侵入を受けたが,1016年ピサ,ジェノヴァ連合軍がこれを追ったのち,ピサの制圧下に教会もピサ司教管区に所属。12~13世紀に神聖ローマ皇帝が国王を立てたが,土着豪族の対立を利用するピサとジェノヴァの勢力争いが王権の確立を許さなかった。14世紀以降アラゴン王がその王権を兼併したが,ユトレヒト条約でオーストリアに譲られ,さらに1720年シチリアと交換にサヴォイア家領となり,同家のもとでサルデーニャ王国,ついでイタリア王国に帰属した。現在はイタリア共和国自治州。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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