第1次世界大戦後のオーストリアと連合国の間の講和条約。サン・ジェルマンは条約が調印された(1919年9月10日)パリ西郊の町サン・ジェルマン・アン・レーを指す。連合国は,かつてのオーストリア・ハンガリー帝国内の少数民族の独立に民族自決の原則を適用する一方,しばしば戦勝国,とくにフランスの戦略的利害を優先させるという矛盾した立場をとった。こうして新オーストリア共和国は旧帝国領のうち首都ウィーンと周辺の農村および山岳地帯に限定され(戦前の領土の1/4),残りはチェコスロバキア,ユーゴスラビア,イタリア,ポーランド,ルーマニアに割譲された。しかも戦略上の理由から,ドイツ系のズデーテン地方がチェコスロバキアに与えられ,同じドイツ語圏のオーストリアとドイツの合併は事実上永久に禁止された。このほかに徴兵制度の禁止,軍備縮小が規定された。また,賠償責任は規定されていたものの,一度も履行されることなくまもなく撤回され,またドイツとの合併禁止も,1938年3月,ナチス・ドイツによるアンシュルス(合邦)によって破棄された。
→ベルサイユ体制
執筆者:平井 友義
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
…これに対し,09年,チロルの住民はホーファーAndreas Hofer(1767‐1810)の指揮下に反乱をおこしたが,バイエルン,フランス,イタリアの連合軍に鎮圧され,チロルは三つに分割されるところとなった。14年再びオーストリア領に統合されたが,第1次大戦後のサン・ジェルマン条約(1919)によって再び分割された。北および東チロルはオーストリア領となったが,南チロルはイタリア領とされ,現在に至っている。…
…宗派別にみれば,ウクライナ人とルーマニア人のほとんどを含む東方正教徒が全体の71%を占め,東方正教・カトリックの合同教会派3%,カトリック11%,ルター派2.5%,ユダヤ教12%であった。18年1月,ロシア革命の影響をうけブコビナ人民会議は北ブコビナのウクライナ併合を決議したが,同年11月ルーマニア軍が占領,19年サン・ジェルマン条約によって全ブコビナがルーマニアに帰属した。ルーマニア統治期にはウクライナ人学校の閉鎖のような差別政策がとられたが,40年ソ連はベッサラビアとともに北部ブコビナへの領有権を主張して取得した。…
※「サンジェルマン条約」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
期日前投票制度は、2003年6月11日公布、同年12月1日施行の改正公職選挙法によって創設された。投票は原則として投票日に行われるものであるが、この制度によって、選挙の公示日(告示日)の翌日から投票日...
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
7/22 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
6/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
5/20 小学館の図鑑NEO[新版]昆虫を追加