ザビエル(英語表記)Xavier, Francisco de Yasu y

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

ザビエル
Xavier, Francisco de Yasu y

[生]1506.4.7. ナバラ
[没]1552.12.3. 広東沖,上川島
スペイン,バスク地方出身のイエズス会士。東洋布教に努め,日本に初めてキリスト教を伝え,東洋の使徒といわれた。パリに学び,ここでイグナチウス・デ・ロヨラに会い,熱心な信仰を得て,ロヨラら6人とともにイエズス会を結成,1537年司祭となる。ポルトガル王の要請で東インドに派遣され,1542年ゴアにいたり,同地でポルトガル人信徒の指導,現地住民の改宗のために働く。 1545~46年マラッカモルッカ諸島アンボン,モロタイなどに赴く。 1547年末マラッカで日本人ヤジロウ (アンジロウ) に接し,日本布教の重要性を悟り,1549 (天文 18) 年7月3日鹿児島に到着,7月 22日 (新暦の8月 15日) に上陸した。滞在2年余のうちに平戸,山口,京都などで布教,500人以上に洗礼を授けた。ゴアに帰ったザビエルは,鎖国下の中国布教を企て,広東 (広州) 港外の小島で入国の機会を待っている間に熱病にかかり死去。 1622年聖人に列せられ,1927年には世界布教保護聖人とされた。祝日は 12月3日。

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デジタル大辞泉の解説

ザビエル(Francisco Xavier)

[1506~1552]日本に初めてキリスト教を伝えたスペインの宣教師。聖人。イグナティウス=デ=ロヨラとともにイエズス会を創設。1549年(天文18)鹿児島に上陸し、以後2年間、九州・中国・近畿の各地で伝道。52年、中国への伝道の途次広東(カントン)付近の上川島で没。シャビエル

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百科事典マイペディアの解説

ザビエル

日本最初のキリスト教伝道者。ザビエー,ザベリヨ,シャビエルなどとも。インドおよび日本への使徒。スペインのナバラ地方,バスク系貴族のエチェベリーア家に生まれ,パリ大学に留学中ロヨラを知り,イエズス会創立に参加。ポルトガル王ジョアン3世の依頼で,1541年リスボンからインド布教に出発,1542年ゴアに着き,南インド,マレー半島,モルッカ諸島に布教。日本人アンジロー(ヤジロー)を知り,その案内で1549年(天文18年)C.deトレス,J.フェルナンデスを伴い鹿児島に上陸,島津貴久に謁見,同地に10ヵ月滞在。平戸(ひらど),山口を経て京都にのぼったが,布教の目的を達せず,山口に行って大内義隆に会い,さらに豊後(ぶんご)で大友宗麟に会って布教。1551年豊後を出帆してインドへ向かい,翌年広東(カントン)の上川(カンチュアン)島に上陸,中国本土布教を目ざしたが,熱病に冒され病没。遺体はゴアに移され,のち右腕はローマに送られた。1622年列聖。1904年〈世界の伝道事業の保護者〉と定められた。
→関連項目ゴアの教会群と修道院群宣教師トレス日本史ビリヨンフロイス

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

ザビエル Xavier, Francisco

1506-1552 スペインの宣教師。
1506年4月7日生まれ。ナバラ王国の貴族の子。1534年イグナチウス=デ=ロヨラらとともにイエズス会をおこす。インド,モルッカ諸島で布教。マラッカであった日本人アンジローの案内で,天文(てんぶん)18年(1549)鹿児島に上陸,日本にはじめてキリスト教をつたえた。平戸,山口,豊後(ぶんご)などで2年あまり伝道。インドにもどり,さらに中国をめざすが1552年12月3日広東港外で病死。46歳。パリ大卒。シャビエルともよむ。

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朝日日本歴史人物事典の解説

ザビエル

没年:1552.12.3(1552.12.3)
生年:1506.4.7
東洋の使徒・世界布教保護の聖人と仰がれ,日本にキリスト教を伝える。ピレネー山脈西南部ナバラ王国(1515年スペインに併合)出身のバスク人。19歳のとき,パリ大学の聖バルバラ学院に学ぶ。1534年8月モンマルトルの聖堂でイグナティウス・デ・ロヨラらと清貧・貞潔・聖地巡礼などの誓願を立てイエズス会創設の一歩を記す。1540年ポルトガル国王ジョアン3世の要請でリスボンに派遣され,翌年「教皇聖下の使節」の資格で同地を発ち,1542年5月ゴアに到着。インド人改宗に重点をおき,このためインドの文化・習慣を尊重してインドへの適応化に努め,マラバール語やタミール語の祈祷書と教理書を編集し,幼児教育を重視して各地に学校を作って現地人の文化向上に寄与した。植民地政府と相いれず,総督など役人の不正を糺弾し国王の宣教活動に対する不熱心を批判した。 その関心は次第に東方に移って,1545年マラッカに至り翌年モルッカ諸島に布教。1547年12月マラッカで薩摩(鹿児島県)出身のアンジローに会い日本開教の希望を抱いてポルトガル人船長アルヴァレスに「日本報告」作成を依頼し情報収集に努める。アンジローをゴアに招いて聖信学院に学ばせ日本語の教理書を編集。1549年4月ゴアを出帆し同8月15日(天文18年7月22日)鹿児島に上陸。同10月16日(同11月5日)にインドに送った長文の手紙は大書翰といわれ,滞在2カ月半の間に見聞収集した情報を報じた。ヨーロッパに日本を体系的に紹介した最初の報告として各国語に翻訳され,版を重ねて日本研究の貴重な素材となった。鹿児島では島津貴久に謁し福昌寺住職忍室と交わり同地で100人ほどの信者を得た。平戸,山口を経て天文19(1550)年12月入洛したが,京都市中が荒廃し天皇の地位が失墜しているのをみて,所期の目的である天皇から布教許可を得て仏教寺院の学僧と宗論することを断念し11日間で離京して山口に戻り,大内義隆に正式に謁して布教許可を得,布教活動の基礎を作った。翌年8月大友宗麟の招きで豊後府内(大分市)に赴き,後継者トルレスに布教方針を授けてポルトガル船でゴアに帰還した。日本布教のためには中国を無視できず翌1552年広東付近の上川島に至ったが熱病にかかり病死した。1622(元和8)年聖人に挙げられる。 現存する書翰は137通,書翰を通じて各地の同僚を指導した。日本に来る宣教師には仏僧との論争に備えて最高の学問を修め科学知識を身につけることを要求した。日本帰りのザビエルに会ったフロイスは後年彼を完璧な男と評した。近世史上,ザビエルほど多くの伝記が書かれた人物はいないとされる。大正9(1920)年大阪府茨木市の千提寺で発見されたザビエルの肖像画は現在神戸市立博物館が所蔵。<参考文献>G.Schurhammer, J.Wicki《EPISTOLAE S.FRANCISCI XAVERII》vol.2,河野純徳訳『聖フランシスコ・ザビエル全書簡』

(五野井隆史)

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世界大百科事典 第2版の解説

ザビエル【Francisco de Xavier】

1506‐52
スペイン人のイエズス会士。ナバラ王国のザビエルに生まれる。バスクの血をひく父母はともに王国の名門で,父は王国の要職を歴任し,枢密院議長も務めた。1512年親フランス政策をとるナバラの首都パンプロナはカスティリャ軍に占領され,ザビエル一家は離散し,父と兄2人はフランスに亡命,父は3年後に死亡した。フランシスコは母と姉たちと王国にとどまり,苦難の幼少年時代を過ごした。21年兄ら王国の旧臣は首都奪回を企てて失敗した。

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大辞林 第三版の解説

ザビエル【Francisco Xavier】

1506~1552) スペイン出身のキリスト教宣教師。聖人。イグナティウス=デ=ロヨラとともにイエズス会を設立、インド・マラッカなどで宣教。1549年鹿児島に上陸、日本に初めてキリスト教を伝える。山口・平戸などで宣教し、51年離日、中国宣教を志したが、広東港外で客死。バスク語名シャビエル。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ザビエル
ざびえる
Francisco Xavier
(1506―1552)

キリスト教宣教師。「東洋の使徒」とよばれる。イエズス会創立期の司祭で、東洋に派遣され、日本に初めてキリシタン宗門を伝えた。
 1506年4月7日、ナバラ王国(スペイン北部の地方)の貴族の家に生まれる。幼少時に同国は隣国のカスティーリャに敗北して滅びるが、ザビエルはパリ大学に留学。27歳のときに優れた指導者イグナティウス・デ・ロヨラの感化を受け、1534年、同志とともにモンマルトルの丘に集い誓約するところがあり、1540年、ロヨラを初代総長とするイエズス会が公認される。これより先、ポルトガル国王は東インドにイエズス会の優れた人材を派遣することを望んだので、ザビエルが選ばれ、1541年、彼はリスボンを離れ、モザンビーク島を経、インドのゴアに至った。
 ローマ法王の使節、イエズス会の東インド管区長の資格をもって、彼はコモリン岬をはじめインド各地を巡り、さらに1545年から1547年にかけて、マラッカからモルッカ諸島まで布教に従事した。その間、マラッカの教会で最初の日本人として鹿児島出身のヤジロウ(アンジロウ)らに会い、彼らの母国日本にキリシタン宗門を広める大いなる熱意を抱いた。
 1549年(天文18)8月15日にザビエルは鹿児島に第一歩を印した。薩摩(さつま)(鹿児島県)、平戸(ひらど)(長崎県)を経、周防(すおう)山口(山口県)でも同僚フェルナンデス修道士らと伝道したのち、1551年の初めに堺(さかい)に達し、ついで京都に赴いたが、戦乱のために天皇も将軍も権威がないのを悟る。落胆のうちに西下した彼は、周防の大内義隆(おおうちよしたか)を再度訪れ、数々の珍奇な品を献上してその好意のもとに山口で布教した。ついで豊後(ぶんご)(大分県)にポルトガル船が入港したとの知らせでその地に移り、大友宗麟(おおともそうりん)(義鎮(よししげ))に謁したのち、1551年ひとまず離日してインドに帰った。翌1552年中国布教を志してゴアから旅立ったが、広東(カントン)沖のサンショアン島で病死した。ときに1552年12月2日(3日説は誤り)。遺骸(いがい)は現在ゴアのボン・ジェズ教会にあり、右腕だけはローマのジェズ教会に安置されている。1622年、聖人の位に列せられた。[松田毅一]
『ラウレス著、松田毅一訳『聖フランシスコ・ザヴィエルの生涯』(1948・エンデルレ書店) ▽吉田小五郎著『ザヴィエル』(1959/新装版・1988・吉川弘文館)』

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世界大百科事典内のザビエルの言及

【アンジロー】より

…人を殺害して逮捕される寸前にポルトガル商人ジョルジェ・アルバレスに助けられ,日本脱出に成功。アルバレスの紹介で,1547年12月マラッカにおいてザビエルに会った。アンジローの才知はザビエルに感銘を与え,彼の来日のきっかけをつくった。…

【イエズス会】より

…耶蘇(やそ)会とも書かれ,同会士はジェスイットJesuitとも呼ばれる。
[創立と精神]
 イグナティウスはマンレサの神体験後,パリ大学で出会った6人の同志P.ファーブル,ザビエル,D.ライネス,N.ボバディリャ,A.サルメロン,S.ロドリゲスとともに,1534年8月15日パリのモンマルトルにおいて〈貞潔・清貧・エルサレム巡礼〉の悲願をたてた。36年同日の誓願更新にあたって,さらに3人の友C.ル・ジェ,J.コデュール,P.ブロエが加わった。…

【キリシタン】より

…同会は清貧・貞潔・服従を誓約し,イエス・キリストの伴侶として神のために働く聖なる軍団たることをめざした。会は40年に教皇の認可を得,その要請によりポルトガル国王のインド植民政策を宗教的側面から助けることになり,王室の財政援助すなわち布教保護権Padroadoを得て東洋布教に着手し,42年ザビエルがゴアに到着した。ザビエルの鹿児島到着は49年8月(天文18年7月)で,同地出身のヤジロー(アンジロー)が先導者となった。…

【キリスト教】より

…イエズス会は各地でプロテスタントに対抗しただけでなく,〈神の栄光のために〉の一念をもって海外に多くの布教師を送り,この点ではプロテスタントに一歩先んじた。日本伝道のザビエル,中国伝道のマテオ・リッチ,インド伝道のノビリRoberto de Nobili(1577‐1656)などが著名である。反宗教改革としていま一つ重要なのは,1545年12月に開かれて,63年12月まで3期にわたってつづいたトリエント公会議である。…

【ゴア[州]】より

…彼はムスリム王の都市を破壊し,リスボンを模してゴア(古ゴア)を建設し,ここをポルトガルのアジアにおける交易とキリスト教伝道の根拠地とした。42年にはフランシスコ・ザビエルも来訪し,ここから日本までの伝道に乗り出していった。天正少年遣欧使節の伊東マンショたちも,往路の83年と帰路の87年に訪れた。…

※「ザビエル」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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