シベリア抑留(読み)シベリアよくりゅう

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

シベリア抑留
シベリアよくりゅう

1945年の第2次世界大戦終結時にソビエト連邦に降伏,または逮捕された日本人に対する,ソ連によるシベリアでの強制労働。抑留者の数は,日本政府の調べでは約 57万5000人とされ,うち約 5万5000人が死亡,約 47万3000人が帰国した。抑留者は主として軍人であったが,満州開拓団の農民,満州の官吏,南満州鉄道株式会社など国策会社の職員,従軍看護婦などもいた。シベリアのほか中央アジア,極東,モンゴル,ヨーロッパ・ロシアなどの約 2000の収容所,監獄に収容され,鉄道建設,炭坑・鉱山労働,土木建築,農作業などさまざまな労働に強制的に従事させられた。1946年12月から引き揚げが始まり,日ソ共同宣言が行なわれた 1956年には有罪判決を受けた者も釈放され,ほとんどが帰国したが,若干名はソ連に帰化した。行方不明者も少なくない。2015年,シベリア抑留と引き揚げの歴史を伝える資料「舞鶴への生還 1945~1956シベリア抑留等日本人の本国への引き揚げの記録」が国際連合教育科学文化機関 UNESCOの世界の記憶に国際登録された。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

朝日新聞掲載「キーワード」の解説

シベリア抑留

第2次世界大戦後、旧ソ連が旧満州などにいた日本兵や民間人をシベリア各地の強制収容所に連行した。強制労働に従事させられ、極寒や飢餓に苦しんだ。厚生労働省の推計では、シベリアとモンゴルに計57万5千人が抑留され、うち5万5千人が死亡した。

(2018-04-27 朝日新聞 朝刊 京都府・2地方)

出典 朝日新聞掲載「キーワード」朝日新聞掲載「キーワード」について 情報

百科事典マイペディアの解説

シベリア抑留【シベリアよくりゅう】

第2次大戦後のソ連軍による日本軍捕虜の抑留。終戦直後,旧満州,朝鮮半島北部,千島・樺太などから,約64万人(満蒙開拓団員など民間人も含む。うち約3万人が朝鮮・中国人)がソ連領内に連行された。捕虜収容所(ラーゲリ)はシベリア,極東地域を中心に,モスクワ以東のロシア,中央アジアの約2000ヵ所に及び,捕虜はきびしい強制労働に従事させられた。この措置は1945年8月23日のスターリンの極秘指令にもとづくもので,戦後のソ連復興策の一環であった。約6万2000人の死亡者を出して,1950年4月までにほとんどの抑留者が帰国した。1991年,ソ連のゴルバチョフ大統領によって3万6000人分の抑留死亡者名簿が日本政府に渡された。抑留地では1990年代以降多くの独立国家が誕生したため,さらなる死亡者名簿や墓参が関係各国で懸案となっている。
→関連項目イルクーツクナホトカ吉田正

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

世界大百科事典 第2版の解説

シベリアよくりゅう【シベリア抑留】

第2次大戦終結時にソ連軍に降伏・逮捕された日本軍人その他がシベリアで強制労働に従事させられたこと。その大部分は関東軍軍人で,これに樺太・千島,北朝鮮で武装解除された部隊が加わり,その数は日本政府推定で57万5000余人とされる。軍人以外では満州国官吏,国策会社,植民地統治機構,協和会,新聞社などの幹部役職員など約1万2200人が含まれる。ポツダム宣言第9項は日本軍隊の郷里への帰還を約束したが,ソ連は上記人員をシベリア(47万2000人),外蒙古(1万3000人),中央アジア(6万5000人),ヨーロッパ・ロシア(2万5000人)と約1200ヵ所の捕虜収容所・監獄に収容,土木建築,鉄道建設,採炭採鉱,生産工業に従事させた。

出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報

今日のキーワード

翔んで埼玉

魔夜峰央(まやみねお)によるギャグマンガ、及び、それを基にした映画作品。埼玉県民が東京都民に虐げられる架空の日本を舞台に、埼玉県解放を目指す人々の愛と戦いを描く。「花とゆめ」(白泉社)の1982年冬の...

続きを読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android

シベリア抑留の関連情報