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ソ連邦共産党の指導者。1915年に入党し,革命に参加。党官僚であったが,34年の第17回党大会以後,党中央委員会書記,同年12月レニングラードの党書記となり,さらに39年からは政治局員として,スターリン体制の一翼を担う。ソビエト連邦作家同盟第1回大会(1934)では党を代表して演説し,社会主義リアリズムを提唱した。第2次世界大戦ではレニングラード防衛戦を指導した。戦後はスターリン主義的文化政策の中心的組織者として知られ,とくに46年以降,アフマートワらをはじめとした文化人,知識人に対する抑圧(ジダーノフ批判)を行った。またコミンフォルムでも活躍,一時期はスターリンの後継者とも目されたが,48年8月死去した。
執筆者:下斗米 伸夫
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ソ連の政治家。ウクライナのマリウポリ(ジダーノフ)出身。十月革命期にウラルで活動。スターリン体制確立の過程で共産党官僚として頭角を現し、1934年の第17回党大会でスターリンを書記長とする4名の書記局員の1人となった。同年のキーロフ暗殺事件後、その後任としてレニングラード(サンクト・ペテルブルグ)の党組織を指導し、独ソ戦中はレニングラード防衛戦を指導した。1930年代からはイデオロギー、文化面を担当し、党の正統路線の確立を図ったが、とりわけ戦後におけるイデオロギー引締め政策は「ジダーノフ批判」として知られる。その下で批判を受け、抑圧された知識人は各分野に及んだ。1947年のコミンフォルム創設ならびにその活動にも影響力をもった。スターリンを忠実に補佐し、スターリン、マレンコフに次ぐ地位にあったが48年に死去した。
[原 暉之]
「マリウーポリ」のページをご覧ください。
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1896~1948
ソ連共産党の指導者。1934年からレニングラード党組織の責任者兼党中央委員会書記となり,第二次世界大戦後イデオロギー,文化問題を担当し,46~48年の思想文化界の傾向を批判した一連のひきしめ演説で名高い。
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出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…19世紀末,ドネツ炭田の石炭,クリボイ・ログの鉄鉱を背景に機械・金属などの重工業が急成長し,南ウクライナ工業地帯の中核都市の一つになった。この地出身のA.A.ジダーノフが1948年に急逝したのに伴い,ジダーノフと変更され,89年現名に改称。【青木 節也】。…
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