改訂新版 世界大百科事典 「ジャータカ」の意味・わかりやすい解説
ジャータカ
Jātaka
広くインドの民話に題材を求めた,釈迦の過去世物語。説話文学としても価値が高い。ジャータカとは,サンスクリットで〈生まれたことに関する〉というほどの意味であるが,仏教聖典で用いられるときは特に今の生を引き起こした過去世の善行物語を意味する。ジャータカが生まれた前4~前3世紀のインドでは,輪廻転生(りんねてんしよう),善悪応報の思想が支配的であり,人は生と死を繰り返すが,その際生まれかわる境涯を決定するのは,その人の前世の行為のよしあしであると考えられていた。したがって釈迦がこの世で悟りを開くという恵まれた生をうけたのは,やはり過去世の善行が人並み以上であったからであろうということになり,ここにすぐれた自己犠牲と忍耐を説くジャータカが生まれたのである。
ジャータカは形式上よりいえば,3部に大別される。第1部は現在世の物語で,釈迦が自分の過去世を語るきっかけとなるできごとを説いている。第2部は過去世物語で,現在の果報を生んだ過去の善行について説く。この部分には,偈(韻文詩)とその字句の注釈などが含まれ,説話の主要部をなしている。第3部は結合部で,〈その時の彼は,すなわちこの私であった〉と第1部の釈迦と第2部の説話の主人公とを結びつけている。これによって,ジャータカは単なる説話文学ではなく,過去と現在の行為の因果関係(業報(ごうほう))を明らかにする教説となっている。ジャータカは一般に〈本生話(ほんじようわ)〉〈本生譚〉などと訳されるが,漢訳では〈本生経〉と仏教経典の一部に分類されていることは注意すべきである。
現在,最も完備したジャータカは,南方仏教が伝える〈小部(クッダカ・ニカーヤ)経典〉(パーリ語)中の22編547種であるが,これには奇跡物語(未曾有法(みぞうほう))や譬喩・因縁物語などは含まれていない。奇跡物語には釈迦の現在世の奇跡が語られ,譬喩や因縁には釈迦以外の過去仏や弟子,信者たちの過去世物語や伝記が集められているのであるから,同じ説話でも,ジャータカは釈迦の過去に限られるわけである。しかし,仏教説話文学という観点からすれば,これらの奇跡物語や譬喩・因縁物語もジャータカと同等に扱われうる。
現存するジャータカおよび仏教説話は前述のパーリ語文献のほかに,サンスクリット,中国語,チベット語,ソグド語などの文献中にも見いだされる。パーリ語文献では,前述のジャータカ以外にも,韻律詩で過去世を語る《チャリヤーピタカCaryāpiṭaka(所行蔵経)》や,釈尊とそれ以前の諸仏との関係を説く《ブッダバンサBuddhavaṃsa(仏種姓経)》などがあり,サンスクリット文献の中では《ジャータカマーラーJātakamālā》や《ディビヤーバダーナDivyāvadāna》が有名である。また,漢訳には,《六度集経(ろくどじつきよう)》《生経(しようきよう)》など原典の散逸したものも多く現存している。
ジャータカは,釈迦の前生を,菩薩(ぼさつ)(悟りを求めて利他行を積む修行者)ととらえ,仙人や鬼神,象や猿など,さまざまな姿で菩薩の修行を積んだとする。そこで特に称賛されているのは施し(布施(ふせ))と忍耐(忍辱(にんにく))で,身を捨てる自己犠牲物語が多い。たとえば,雪山童子(せつせんどうじ)が教えをまとめた詩句の後半が聞きたくて身を悪鬼に投げ出す話や,薩多太子(さつたたいし)が飢えた虎の母子に血肉を与えた話は,遠く法隆寺の玉虫厨子にも描かれている。このほか,客をもてなすために火中に身を投じた兎の話や,両眼を施して鳩を救ったシビ王の物語などもよく知られている。
ジャータカはインド各地の昔話や寓話にもとづいているため,共通の説話がヒンドゥー教やジャイナ教の聖典中にも見いだされる。これらの民話を集成した《パンチャタントラ》は,のちにシリア語やアラビア語に訳されて西方に伝播し,《イソップ物語》や《アラビアン・ナイト》,さらには《グリム童話》,J.deラ・フォンテーヌの《寓話》などに影響を与えた。また,日本へも前述の漢訳文献を通じて《今昔物語集》などに入っている。たとえば,〈二羽の紅鶴と亀〉の話は,〈亀と鷲〉(イソップ),〈二羽の家鴨と亀〉(ラ・フォンテーヌ),〈雁と亀〉(《今昔物語集》)となり,一角仙人の話は《今昔物語集》を通じて謡曲《一角仙人》や歌舞伎《鳴神》となっている。
ジャータカはまた,彫刻や絵画等としても表現されている。最古のものは中部インドのバールフット古塔(前2世紀ころ)の玉垣のレリーフである。このほか,サーンチー大塔の門,アジャンター窟院の壁画,中国新疆ウイグル自治区のキジル千仏洞,甘粛省敦煌莫高窟,中部ジャワのボロブドゥール大塔の回廊,タイのトライ・プン画帖,さらに日本の法隆寺玉虫厨子など,その範囲も広く,数も多い。
執筆者:田中 教照
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報