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スパルタ スパルタ Sparta

翻訳|Sparta

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

スパルタ
スパルタ
Sparta

アテネと並ぶ古代ギリシア都市国家歴史時代の公称はラケダイモンという。スパルタの完全市民はスパルチアタイと呼ばれた。ペロポネソス半島に侵入したドーリス人の一部が前 10世紀頃ラコニアに来住し,村落を形成。

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デジタル大辞泉の解説

スパルタ(Sparta)

アテネと並ぶ古代ギリシャの代表的都市国家。前12世紀ごろ、ドリス人ペロポネソス半島南部に建設。前5世紀のペロポネソス戦争アテネを破ってギリシャの覇権を握ったが、前371年、テーベに敗れ、以後は急速に衰えた。

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百科事典マイペディアの解説

スパルタ

ペロポネソス半島南部にあった古代ギリシアのポリス。ラケダイモンとも。ラコニアに入ったドリス人の一派が前8世紀初めころ都市国家を形成したと見られてきたが,近年は異説もある。
→関連項目アテネアルタクセルクセス[2世]アンタルキダス条約エパメイノンダスギリシア(古代)コリントス戦争タレントゥムペリクレスペロポネソス半島歩兵ポリスメッセニアラケダイモンラコニア

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デジタル大辞泉プラスの解説

スパルタ

ビルケンシュトックが販売するサンダル

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世界大百科事典 第2版の解説

スパルタ【Sparta】

ペロポネソス半島の南部,エウロタス川の西岸に位置した古代ギリシアのポリス。古代の正式の名称はラケダイモンLakedaimōn。現在名はスパルティSpárti
[古典期以前]
 ミュケナイ時代この地にはホメロス叙事詩に〈メネラオス王の国スパルタ〉とうたわれた一つの王国があった。この王国は前1200年ころ他のミュケナイ諸王国とともに滅んだ。従来ミュケナイ諸王国の崩壊はドリス人の侵入が引き起こしたものとされていた。

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大辞林 第三版の解説

スパルタ【Sparta】

古代ギリシャの都市国家。ドーリア人がペロポネソス半島南部に建設。ペロポネソス戦争でアテネを破り、ギリシャ全土を支配したが、紀元前371年テーベに敗れ、以後衰退。軍国主義的政治体制、勤倹・尚武の厳しい教育を行なった。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

スパルタ
すぱるた
Sparta

古代ギリシアの代表的なドーリス人のポリス(都市国家)。ラケダイモンLakedaimonともいわれた。中心市は、ペロポネソス半島の南東部ラコニア地方を北から南に貫流するエウロータス川の中流右岸にあった。[清永昭次]

成立と発展

紀元前13世紀のラコニアLaconiaにはアカイア人が住み、たぶん一つのミケーネ王国があったが、それは前1200年ごろ外敵の侵入を受けて崩壊し、ついで前1000年ごろドーリス人が侵入して各地を占拠した。スパルタの中心市の地には、前10世紀中にドーリス人の四つの村がつくられ、征服されたアカイア人は、ヘイロタイheilotai(奴隷身分の農民)となった。この4村は長期にわたり覇権を争ったが、結局、前800年ごろ集住(シノイキスモス)によってポリスを形成し、秩序を回復した。アギス家、エウリポン家からそれぞれ王を出す二王制度が生まれ、市民はスパルタ人(スパルティアタイ)とよばれたが、ポリスの主権は、長老会に拠(よ)る貴族の手に帰した。ポリスの成立の際に、伝説的な立法者リクルゴスが指導的な役割を演じたといわれる。
 スパルタは、まもなく周辺に勢力を伸ばし始め、屈服させた人々のうち、アカイア人を、一部ペリオイコイperioikoi(半自由民)としたほかは、ヘイロタイとし、ドーリス人をペリオイコイとした。しかし前750年ごろに占領した、中心市の南方約8キロメートルのアカイア人の村アミクライは、中心市を構成する第五の村として受け入れた。東部海岸地帯を除くラコニア全域は、遅くとも前700年までには征服されたが、スパルタは、それより早く前725年ごろ、西隣のメッセニアMessenia地方に侵入して第一次メッセニア戦争を起こし、約20年をかけて肥沃(ひよく)な中央平野を占領し、その地のメッセニア人をヘイロタイとした。またこの戦争中、スパルタの貴族は、王を抑えるためにエフォロイephoroiとよばれる役人団を設置した。前8世紀末には南イタリアのタラスに植民市を建設したが、前669年ごろヒシアイの戦いでアルゴスに大敗し、その後まもなくメッセニア人が反乱を起こして第二次メッセニア戦争となった。スパルタは苦戦し、国内からは土地の再分配を求める声があがったが、前650年ごろメッセニア全土を征服して、ペリオイコイとした一部を除くメッセニア人すべてをヘイロタイ化し、土地の再分配も実施して、スパルタ人はすべて土地所有者となった。
 前7世紀後半のスパルタは、外人を歓迎し、文化的にも物質的にも繁栄したが、同世紀末に北隣のアルカディア地方の征服戦争に乗り出して、テゲアとの戦いに失敗を重ね、国内でも平民が政権への参加を求めて動揺が生じたため、前556/555年の筆頭エフォロスephorosのキロンが、対外政策を従来の征服から同盟に転換し、テゲアとはスパルタ優位の同盟を結んで、ペロポネソス同盟の基礎を置いた。国内では貴族政から民主政への国制の変革を断行して、同等者としての全市民の政治参加を実現し、またスパルタ人の生活を隅々まで規制する、いわゆる「リクルゴス制度」を始めた。これはしだいに形を整えて、土地の譲渡・売買の禁止、市民の生産労働の禁止、貴金属貨幣の使用抑制と鉄銭の使用、外人追い払い、市民の毎夕の共同食事、満6歳になったときからの男子の厳しい集団訓練などを内容とする、独特の制度となった。「スパルタ教育」とよばれる集団訓練の制度では、満6歳に達した少年は、家庭を離れて寄宿生活に入り、以後、満29歳の年を終わるまで、順次年齢別の四つのグループに所属して種々の訓練を受けた。ポリス国家にとって不可欠の強い戦士の養成が目的とされ、そのために、読み書きの学習は必要最小限にとどめられて厳しい体育訓練が繰り返され、また粗衣粗食の生活が強制され、不足の食料を補うための盗みさえも訓練のひとつとして行われた。
 こうして前500年ごろのスパルタは、ポリスとしては例外的に広い約8500平方キロメートルの領土と約8000のスパルタ人、その数倍のペリオイコイと十数倍のヘイロタイを擁し、ペロポネソス半島の大半を覆うペロポネソス同盟の盟主の地位を得、全スパルタ人を代表するエフォロイを最高役人団とする民主政、市民団の分解を阻止するためのリクルゴス制度を土台とし、ペリオイコイと、とくにヘイロタイの抑圧に努めたが、他方、文化的には急速に衰え、みるべき文化のないポリスとなった。[清永昭次]

覇権と衰退

スパルタは、前6世紀のなかばごろ以降、ギリシア各地の僭主(せんしゅ)政打倒のために軍隊を送り、前545年ごろ、ラコニアの東部海岸地帯とキティラ島をアルゴスから奪い、前494年ごろセペイアの戦いでアルゴス軍を壊滅させた。前510年にアテネの僭主ヒッピアスを追放したのちも、三度アテネへの干渉を試みたが、前5世紀初めのペルシア戦争では、ヘラス連合軍の総指揮権を握り、アテネなどとともにペルシア軍と戦った。前5世紀初めにも反乱を起こしたメッセニア人は、前464年にスパルタが大地震にみまわれたのを機会に大反乱に立ち上がった。この反乱は、その後数年続いて鎮圧されたが、その過程でスパルタはアテネに援助を求めながら、到着したアテネの援軍を拒絶した。すでにペルシア戦争中から生じていたアテネとの対立関係は、この事件で一段と激化し、前457年のタナグラの戦いでは直接両軍の衝突が起こったが、両国の全面戦争には至らず、前451年には5年間の休戦条約、前446年には期間30年の和約が結ばれた。しかし、発展を続けるアテネに対する恐怖心と嫉妬(しっと)心は、一連の事件を誘因として、前431年スパルタをペロポネソス戦争に追い込んだ。
 スパルタは、前404年に勝利を収め、ギリシアの覇権を握ったが、その抑圧的な行動は諸ポリスの反感を招き、またペロポネソス戦争末期のペルシアとの同盟関係も破れて、前4世紀初めにコリント戦争が起こった。スパルタはペルシアと「大王の和約」を結んで、この危機を切り抜けたが、前371年のレウクトラの戦いでテーベに敗れて、ギリシアの覇権を失い、翌年メッセニアが独立を回復して、スパルタの領土は半減した。また、ペロポネソス戦争後、リクルゴス制度が崩れたことから、前4世紀に市民団の解体、土地所有の集中、スパルタ人の減少が急速に進んだ。前362年のマンティネイアの戦いで、テーベはふたたびスパルタを撃破した。
 スパルタは、前337年のコリント同盟に参加せず、前333~前331年にマケドニアに対するギリシアの抵抗運動を組織したが、失敗した。前3世紀なかばごろ、スパルタ人の数は700人、そのうち土地所有者はわずかに100人に減じた。前3世紀の後半に相次いで即位したアギス4世とクレオメネス3世は、思いきった改革によって祖国の復興を企てたが、ともに挫折(ざせつ)に終わった。前220年に初めて二王家の外から即位したリクルゴスは、アギス家の王アゲシポリスを追放して、二王制度を廃した。彼が前211年に死ぬと、タレントゥムの傭兵(ようへい)あがりのマカニダスが、リクルゴスの未成年の子でその後を継いだペロプスの保護者として政権を握り、僭主的支配を行ったが、前207年にアカイア同盟軍とマンティネイアに戦って敗死した。ついで、おそらくエウリポン家の出のナビスがペロプスの保護者となり、同年ペロプスの死とともに即位し、スパルタの最後の王として僭主的支配を行い、クレオメネス3世の改革の再現を目ざして種々の政策を強行したが、前192年に暗殺された。同年スパルタはアカイア同盟に加盟させられたが、まもなく離脱してしばしばこれと抗争したすえ、前146年以後はローマの支配下に入った。しかし自由市として自治を認められ、とくに紀元後2世紀にはかなり繁栄を回復したが、395年、アラリックの率いる西ゴート人の略奪によって荒廃した。
 中世のスパルタは、13世紀なかばごろから廃墟(はいきょ)と化し、1834年に再建された。現在のスパルティSprti(現代ギリシア語名)は、人口1万5100(2001推計)、ラコニア平野の農産物が集散する地方都市で、ラコニア県の県庁所在地である。市街の北北西、周辺との標高差22メートルの低い丘が古代のアクロポリス、その南の平坦(へいたん)地がアゴラの跡であるが、古典期までのスパルタの繁栄をしのばせるものは残っていない。[清永昭次]
『プルタルコス著、河野与一訳『プルターク英雄伝』(岩波文庫) ▽太田秀通著『スパルタとアテネ』(岩波新書) ▽岩田拓郎著「アテナイとスパルタの国制」(『岩波講座 世界歴史 1 古代 1』所収・1969・岩波書店) ▽古山正人著「スパルタ的生活とその崩壊」(『西洋史 2 地中海世界』所収・1979・有斐閣新書)』

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世界大百科事典内のスパルタの言及

【ギリシア】より

… ミュケナイ文明は前12世紀を通じて崩壊したが,その原因は明らかでなく,このころヒッタイト王国を滅ぼしてエジプトに海陸両面から侵入して撃退された〈海の民〉の広範な破壊活動の一環であった公算を否定することができない。ドリス人の南下によってミュケナイ文明が破壊されたことは考古学上否定されており,スパルタにドリス人の居住地が初めて現れたのは前10世紀中葉であった。このころまでのギリシア諸種族の移動の結果,小アジア西岸には北からアイオリス,イオニア,ドリスの諸市ができた。…

【シュノイキスモス】より

…移住が実際に行われず,結合が主として政治的なものにとどまるような場合は,特にシュンポリテイアsympoliteia(ポリスを共通にすること)と呼ばれる。共同体成員の移住を伴った例はスパルタで,ラコニア地方を平定したスパルタ人は,前8世紀中葉スパルタに集住してヘイロータイとペリオイコイを支配するスパルタ人共同体を構成した。移住を伴わずにポリスを形成した例はアテナイで,アッティカにはミュケナイ時代には王政のもとにいくつかの村落共同体があったが,暗黒時代に王政は衰え,ほとんど独立の村落がいくつもあった時代に,貴族と平民の分化した段階で,村々の貴族層がアテナイに共同の評議会(アレオパゴス会議の前身だったであろう)を構成することによってポリスが成立したと推定される。…

【スパルタ教育】より

…現在では一般に,体罰を含む厳格な教育法の代名詞として使われる語。本来,特定の歴史状況の中で生まれ,共同体国家の維持と密接に結びついていた古代ギリシアのスパルタにおける教育制度に由来するもの。スパルタは前7世紀半ばの第2次メッセニア戦争後,平等者の共同体を形成した。…

【ペロポネソス戦争】より

…前431年から前404年にかけて,アテナイを盟主とするデロス同盟と,スパルタを中心とするペロポネソス同盟とが,古代ギリシア世界を二分して戦った大戦争。
[原因と経過]
 前435年,ギリシア本土北西岸の植民市エピダムノスの党争をきっかけにコルキュラとコリントスが対立し,前433年,両市の戦いに際しアテナイがコルキュラ救援軍を送ったことにより,アテナイとペロポネソス同盟の有力市コリントスとが争うようになったのが戦争の直接の原因であるが,ペリクレスの指導の下にデロス同盟の盟主としてギリシア随一の勢いを示すアテナイに対し,スパルタが不安と反感を抱くにいたったところに,その遠因があったと考えられる。…

【ペロポネソス同盟】より

…〈ペロポネソス同盟〉は現代の呼称て,古代においては〈ラケダイモン人とかれらの同盟国〉といわれていた。スパルタの主導の下に設立され,アルゴスを除くペロポネソス諸国が加盟,同盟の構造は非常に緩やかで,共同の戦争遂行のみが規定されていた。同盟会議の席上,戦争遂行が決定されると,スパルタは全軍の指揮権を掌握し,各国は戦費を支払った。…

【マンティネイアの戦】より

…前418年のスパルタとアルゴスの戦い。アルキビアデスの説得で,アルゴス同盟諸国とアテナイ勢はオルコメノスを陥れた。…

【レウクトラの戦】より

…前371年のスパルタとテーバイの戦い。この年スパルタで再度〈大王の和約(アンタルキダス条約)〉が結ばれたが,テーバイはボイオティアを代表することを認められず,和約に加わらなかった。…

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