翻訳|Tunisia
基本情報
正式名称=チュニジア共和国al-Jumhūrīya al-Tūnisīya/Tunisian Republic
面積=16万3610km2
人口(2010)=1055万人
首都=チュニスTunis(日本との時差=-7時間)
主要言語=アラビア語
通貨=チュニジア・ディーナールTunisian Dīnār
北アフリカ,マグリブ地方の独立国。
北アフリカ中部にあり,北と東は地中海に面し,西はアルジェリア,南はリビアに接している。国土は,北部のテル・アトラス(海岸アトラス)地方,北西部の脊梁山脈地方(最高峰1544m),東部のステップ地帯,南部の砂漠地方の四つに分けられる。北部と北西部は地中海式気候で年間400mmを超える規則的な降雨があるが,南下するにしたがって雨量が乏しくなり,夏の気温が高くなる。
他のマグリブ地方と同様にベルベルが先住民であるが,7世紀以降イスラム化とアラブ化が進んで,現在では南部にわずかのベルベル系住民が残っているだけである。公用語はアラビア語であるが,都市ではフランス語も広く通用する。
近世以降オスマン帝国の属州となったが,17世紀にムラードMurād朝がオスマン帝国の宗主権下で自立し,フサインḤusayn朝(1705-1957)のもとで近代を迎えた。ヨーロッパ列強の圧力に対してベイbey(太守)を頂点とする支配者層は,軍制や官制の改革など一連の近代化政策を実施することによって対抗しようとしたが,それが財政危機を招き,対外従属への道を開いた。フランスは1881年にバルドーBardo条約,83年にマルサMarsa協約を押しつけチュニジアを保護領にした。
保護領体制下でベイは温存されたが,外交,内政ともに政治の実権はフランス政府の任命する統監が握り,また地方政治はフランス系入植者の代表が動かした。チュニジア人は被植民者として政治的権利を奪われていた。
20世紀初頭チュニジア人の政治的地位の向上を求める〈青年チュニジア党〉の運動がおこり,やがて独立運動に発展した。民族運動の高揚期は三つの波に分かれる。すなわち第1の波は第1次大戦後のチュニジア立憲自由党(ドゥストゥールDustūr党)が指導した立憲君主制の憲法を要求する運動,第2の波は,1930年代半ばに,同党を除名され,同名のドゥストゥール党(ブルギーバ派,新ドゥストゥール党ともよばれる)を結成しその指導者として台頭したブルギーバが率いた大衆的な反植民地支配運動,第3の波は第2次大戦後の独立運動である。フランス政府はいずれも弾圧をもって臨んだが,50年代に入ってドゥストゥール党は労働組合ほかの大衆運動,都市テロ,農村ゲリラ戦術によって圧力をかけ,55年6月に内政上の自治,翌56年3月に完全独立を達成した。
1930年代から民族運動を指導したブルギーバは,独立後の選挙でドゥストゥール党を圧勝させ,政敵ベン・ユーセフBen Yūsefを追放して実権を握った。57年にベイ制を廃止し,共和国樹立を宣言して初代大統領に就任した。以来87年にいたるまで31年にわたってブルギーバ体制が続いた。
ブルギーバ体制の特徴は次の4点にあった。第1にドゥストゥール党(1964年に〈社会主義ドゥストゥール党〉と改称)の一党制。他の政党は事実上禁止され,労働組合や経営者団体,官僚機構も党の支配下におかれていた。第2に大統領,党首を兼ねるブルギーバ個人への権力の集中。第3に法治主義,民主主義の形式的な尊重による文民支配。第4に現実主義・中庸主義的な政策志向と実施方式。とくに外交政策では,現実主義,中立主義の立場をとって,小国なりに国際社会に積極的役割を果たそうとした。
こうした特徴はずっと変化していないが,政治の直接担当者の交代にほぼ照応して,政策課題が次のように変化した。(1)50年代のブルギーバ親政期 国家機構の整備と1956年の身分法,57年のワクフ廃止法のような世俗化・近代化政策。(2)60年代のベン・サラーハBen Ṣalāḥa経済相執政期 社会主義の名による工業化,経済改革政策と国権の強化。(3)70年代のヌイラal-Hādī al-Nuwīra首相期 外向型経済開発政策の推進。(4)80年代のムザーリMuḥammad Muzālī首相期 一党制の是正,多党化への道の模索(1981選挙)と開発戦略の見直し,社会政策の実施。
このようなブルギーバ体制に対して,ドゥストゥール党内から出た批判勢力が,〈民主・社会主義運動〉(メスティリ派),〈人民統一運動〉(ベン・サラーハ派)のような新政党を作って選挙で挑戦した(1981)。また労働組合もゼネストによって政府に対抗した(1978)ことがある。だがポスト・ブルギーバ体制を模索する大統領自身とその後継者と目されるムザーリ首相をもっとも脅かしたのは,自然発生的な大衆暴動(1984年1月)やイスラムと結びついた大衆運動である。
ブルギーバは86年にムザーリ首相を更迭して経済政策に通じたスファル首相を,さらに87年10月には内務畑のベン・アリ首相Zine al-Abidine Ben Ali(1936- )を登用して危機を乗り切ろうとした。ところが87年11月にブルギーバ自身が病気廃疾を理由に大統領を解任された。後任の大統領に就任したベン・アリは,政治体制や政策方向についてはブルギーバ時代のものをほぼ継承したが,少しずつ政治体制を改め,88年には与党の名称を〈立憲民主連合〉に改めた。複数政党制という原則は変更しなかったが,89年4月の大統領選挙では対立候補がなく,また国会選挙では与党〈立憲民主連合〉が全議席を独占し,野党の当選者はなかった。イスラム政党として〈イスラム志向運動〉(後に〈ナフダ=復興党〉と改称)が勢力を拡大していったために,ベン・アリ政権は同党を非合法化し,厳しい弾圧を加えた。
チュニジアは交通の要衝であり,古代以来地中海貿易,サハラ越え交易によって栄えた。国内産業の基礎は農業(麦類と羊)であったが,チュニスほかの沿岸都市で手工業の発達がみられた。18世紀以降ヨーロッパ諸国との競合により遠隔地交易が衰退に向かったが,19世紀からのフランス,イタリアの経済的進出によって国内商業と手工業も打撃を受けた。
フランス保護領になって,フランス・イタリア系農業植民者による,ブドウ,オリーブ栽培を軸とした商業的農業の発達,リン鉱石ほかの鉱産資源の開発,鉄道・道路・港湾の整備が行われたが,工業の発達は抑制された。チュニジア人は自給農業,国内商業,手工業など植民者の利害に抵触しない分野での経済活動に従事した。
独立後,鉱山,鉄道など基幹部門の国有化によって公共部門が強化され,経済のチュニジア化が進められた。また政府を主体とする経済開発が行われたが,その戦略は1969年と86年を境に大きく転回した。すなわち69年まではベン・サラーハの主導下で,製鉄所などの重化学工業優先の工業化計画と旧植民者農場を中核とした農業生産協同組合の組織といった社会主義的,内向型の開発戦略がとられた。60年代にも平均4%を超える実質成長率が達成されたが,対外債務の累積と,協同組合化を恐れる自営農と商人のサボタージュにより経済状態が急激に悪化した。それがベン・サラーハ解任の理由である。
これに対して70年代はヌイラ首相のもとで,外貨導入による輸出向け軽工業と観光産業の振興重視という自由主義的,外向型の開発戦略がとられた。同じ時期に小規模だが原油輸出の開始,出稼ぎ労働者の国内送金,外国からの直接投資の増加という条件が重なったために,70年代の成長率は8%に達した。2.6%の人口増加があったにもかかわらず,国民生活は向上したし,工業化の成果が軽工業品の輸出増加という形であらわれた。ところが70年代後半になると,経済成長の負の結果が産業部門間・地域間格差の拡大としてあらわれ,また世界的不況の影響でチュニジア経済も深刻な打撃を受けた。
1985年から86年にかけて,IMFと世界銀行の指導のもとで政府は経済の安定化計画と構造調整政策に取り組んだ。福祉予算や補助金を削減し価格の自由化を進める,国営企業の改革と民営化を推進する,輸入を自由化し国際競争力を強化するために通貨の切下げを実施する,などである。
独立以後のチュニジア経済は大きく変化した。国民総生産159億米ドル,1人当り1740米ドル(1994)というのは中位中所得国の水準にあるが,農業部門の比重は国民総生産,就業人口,貿易構造のいずれからみても大きく低下した。オリーブ油ほかの地中海地方特産農産物は重要な輸出産品であるが,麦類や乳製品は国内で自給できず,輸入に依存する割合が増えている。リン鉱石関連製品(リン酸液,化学肥料)や原油の輸出は輸出総額の1割強の水準に低下し,かわりに工業製品とくに繊維製品の比重が6割を超えるにいたった。貿易収支は構造的に赤字であり,観光収入や出稼労働者の国内送金で国際収支を補っている。植民地時代には貿易相手国,援助供与国としてフランスの地位が圧倒的に高かったが,ドイツやイタリアなど他のEU加盟国の比重が次第に高まっていった。
チュニジアは古くから社会統合が進んだコンパクトな国であり,住民の98%はイスラム教徒でアラビア語を話す。ベルベル系住民,ユダヤ教徒はいるが,深刻なマイノリティ問題はないし,部族問題もない。言語については,アラビア語といっても口語と正則語の差が大きい。独立後はアラビア語化政策を進めるとともに,植民地時代からのフランス語を併用する二言語主義を,文化政策,なかでも教育政策について実施している。
社会統合の障害として,地域主義の弊害が指摘されることがあり,政治家はサーヘル地方(モナスティール,スース),実業家はスファクス地方,文化人はチュニス地方と,出身地方によってエリート層の活動領域が異なっている。だがこうした地域主義よりも経済成長によって拡大した都市と農村の地域格差,富裕な政治・経済エリート層と貧しい都市雑業・農民層の社会格差のほうが,社会統合にいっそう深刻な問題を投げかけている。都市,とくに首都チュニスへの人口集中,それに伴う都市問題(住宅,交通)と農村の過疎化問題が社会不安の原因になっている。また政府の近代化・世俗化政策と経済成長によって,イスラムにもとづく家族制度や伝統的価値観が崩壊し,消費志向の強い生活意識が定着した。
それに対する都市貧困層や失業予備軍である青少年の不満と危機感が,しばしば原理主義的なイスラム運動と結びつき,自然発生的な大衆暴動となってあらわれた(1978,84)。政府は弾圧と妥協によって対抗しようとしているが,人権擁護運動,女性運動のように市民運動も外国のNGO活動と結びついてさかんになっている。
なおアラブ諸国のなかでもチュニジアは女性問題に関する先進国であり,女性の職場進出やベールなしで自由に外出する女性が目だつ。イスラムの家族制度や価値体系と結びついているだけに女性の地位向上が急速に進むことはないが,イスラム的復古主義の風潮のなかでも着実にチュニジア社会は変化している。
チュニジアの歴史は,ベルベル人が定着した先史時代に始まって,古代にはカルタージュ(古称カルタゴ)を中心にフェニキア,ローマ,バンダル,ビザンティンとさまざまな支配者が交代した。7世紀以降のアラブ軍の征服以降,9世紀のアグラブ朝(800-909),10世紀のファーティマ朝(909-1171),10世紀末からのジール朝(972-1148),13世紀からのハフス朝(1228-1574)などの諸王朝が盛衰を繰り返すうちに,アラブ・イスラム国家としての現在のチュニジアが形成された。16世紀にいったんオスマン帝国の支配に入ったが,17世紀半ばにムラード朝のもとで自立し,18世紀からのフサイン朝に引き継がれた。フサイン朝は外圧と近代化をめぐる19世紀の危機を乗り越え,フランスの保護領時代(1881-1956)も存続したが,1957年にブルギーバ大統領をいただくチュニジア共和国の誕生でその生命を終えた。近代以前の歴史・社会については〈マグリブ〉の項も参照されたい。
執筆者:宮治 一雄
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北アフリカの中央に位置し,地中海に面するアラブ国家。正式国名はチュニジア共和国。先住民はベルベル人であったが,現在,アラブ系住民が98%を占め,ベルベル系は1~2%に過ぎない。ムスリムが99%。フェニキア人がカルタゴを築いてから発展し,ローマ,ゲルマン,ビザンツ帝国の支配を受けた後,7世紀にアラブ・ムスリムが侵入し,アラブ化とイスラーム化への道が開けた。オスマン帝国の支配,さらに1881年フランス軍が上陸,その2年後にマルサ協定によりフランス保護領(1883~1956年)となった。1956年独立。57年ベイ制(フサイン朝)を廃し,共和制を樹立。大統領にブルギーバを選出した。一夫多妻制の廃止,ヴェールの排除などの近代化を促進し,アラブ穏健派としてアラブ連盟本部やPLO本部を一時引き受けた。87年内相ベン・アリーが無血クーデタで大統領となった。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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