フランスの劇作家、小説家。フランス北部の小さな町、ビレル・コトレ生まれ。父は退役将軍でデュマが4歳のとき亡くなり、たばこ屋を営む母の手で育てられた。1823年パリに出て、後の国王ルイ・フィリップの書記として働きながら、文学の修業に励んだ。29年『アンリ3世とその宮廷』Henri Ⅲ et sa Courがコメディ・フランセーズ座で上演され絶賛を博す。そこにみられる愛、陰謀、復讐(ふくしゅう)、暗殺といった筋立ては、当時隆盛期にあったロマン派演劇の特徴だったが、のちに彼によって発表される多くの長編小説の世界とも共通している。続いて31年に発表の『アントニー』Antonyも、社会体制への抵抗、抑えがたい情念といった主題で、ロマン派演劇の代表的傑作の一つとされている。戯曲はほかに『ネールの塔』(1832)、『キーン』(1836)などがある。
当時フランスでは歴史小説の一種のブームがみられたが、1840年代以降のデュマは、旺盛(おうせい)な創作力を長編歴史小説に注ぐこととなる。歴史小説といっても史実にはあまりこだわらず、劇作の場合と同じように、主として波瀾(はらん)に富んだ筋書きのおもしろさで読者をひきつける。剣豪ダルタニヤンを中心とする三部作『三銃士』(1844)、『二十年後』(1845)、『ブラジュロンヌ子爵』(1848~50)、そして『モンテ・クリスト伯』(1844~45)などが有名。なお、実生活でも奔放な性格の持ち主であり、『椿姫(つばきひめ)』の作者デュマ(子)は彼の私生児である。
[宮原 信]
『生島遼一訳『三銃士』全2冊(岩波文庫)』▽『笹森猛正訳『ブラジュロンヌ子爵』(1949・講談社)』▽『山内義雄訳『モンテ・クリスト伯』(『世界文学全集14』所収・1969・集英社)』
フランスの有機化学者。フランス中南部のアレスの書記の子。コレージュで初等教育を受けたのち薬剤師に徒弟入り。その後ジュネーブに移る。そこでの研究が認められ、パリの理工科大学校(エコール・ポリテクニク)の化学復習教師に採用される(1823年。1835年から教授)。ほかにもソルボンヌ大学(パリ大学)(1841)、医科大学(1839)の教授に就任。工業技術学校の設立、『化学・物理学誌』の編集にも参加。また、二月革命ののちには政治にもかかわり、農商務大臣、元老院議員などの要職につく。1868年からは科学アカデミーの終身会長。フランスで初めて実験室教育を行い、多数の弟子を養成した。リービヒと並ぶ19世紀なかばごろの化学界の大立て者。
ガラスや染料などの化学技術や生理学を含む広範囲の研究を行った。とりわけ、現在も用いられている蒸気密度測定法(1826)と窒素定量分析法の開発や原子量の改定、同族列の概念を含む有機化合物の分類、置換の説(1834)と型の説(1840)の提唱は有機化学の創生に大きな貢献を果たした。当初ベルツェリウスの電気化学的二元論を支持していたデュマは有機化合物は塩基性部分および酸性部分からなると考えたが、化合物中の水素が塩素によって置換され、さらに酢酸の塩素置換物が同様の化学的性質をもつことから化合物の単一構造(型)説を唱えた。この説は弟子のジェラール(ゲルアルト)らによって新型の説に発展し、ついで有機化学構造論の展開をみることになる。
[肱岡義人]
フランスの劇作家、小説家。アレクサンドル・デュマとベルギー生まれの裁縫女カトリーヌ・ラベーの私生児としてパリに生まれる。母親から受け継いだ堅実な市民性やモラルが、彼の作風を父とはまったく別のものにしたといわれる。年少のころから父の身辺の文学者たちと交わり、詩や小説を書き始める。社会の偏見に苦しんで歓楽街に青春を埋(うず)めた日々の体験から、初期の作品が生まれた。詩集『若気の過ち』(1847)、小説『椿姫』(1848)である。父の勧めで劇化された『椿姫』は、テーマを不道徳とする検閲官の偏見にあって初演(1852)までに数年を要したが、ボードビル座での初演は破格の成功を収め、以後デュマに問題劇作家という方向性を与えた。
贋(にせ)貴婦人の野心をくじく『半社交界(ドウミ・モンド)』le Demi-Monde(1855)、金力支配を攻撃する『金銭問題』(1857)、社会の偏見を糾弾する『私生児』(1858)、姦通(かんつう)問題を取り上げた『クロードの妻』(1873)など、一見してわかるように、第二帝政の享楽的・物質的社会が生み出すさまざまな悪への直接的攻撃である。彼自身の出生を原点とするこの厳しい道徳的欲求は、劇作家が裁判官や説教師の役を演じるとの批判も浴びたが、身近な問題性や華麗でリアルな描写が当時の観客には新鮮だった。今日これらの作品は、テーマの有効性は失われたが、第二帝政期の風俗資料としての価値をもつ。エミール・オージエとともに19世紀写実主義演劇を担う作家である。アカデミー会員。
[佐藤実枝]
『吉村正一郎訳『椿姫』(岩波文庫)』▽『新庄嘉章訳『椿姫』(新潮文庫)』
フランスの化学者。中央技術工業学校創立者の一人。アカデミー・デ・シアンス会員。初め薬学を学び,医学・生理学的研究も行った。研究の大部分は1848年ころまでで,以後は政治家としての活動が多くなり,農業大臣,元老院議員,造幣局長も務めた。最初の重要な化学上の貢献は,常温で固体である物質の蒸気密度測定法の改良である。水銀,硫黄,リン,ヒ素の蒸気密度を測定し,当時のアボガドロの仮説に基づいて,原子量の正確な決定を試みた(1826,32)が,それぞれ当時認められていた原子量の1/2倍,3倍,2倍,2倍の値を得てしまい,この試みは失敗し,かえって原子論に対して慎重な態度をとらざるをえなくなった。次に,エーテル化(エステル化との区別はできていない)の問題に取り組み,この反応のメカニズムを解明するため,有機化合物における塩素による水素の置換反応を研究し,これを一般化して置換の理論(メタレプシー)を提唱した(1834-38)。この理論は,当時の電気化学的二元論(化合物は+と-の原子または基の結合)を否定するもので,以後二元論は衰退する。彼は,原子論への関心は持ちつづけ,J.S.スタスとともに炭素の原子量をベルセリウスよりも正確に決定した(1840)。また,塩素を除けば大部分の元素の原子量が水素の整数倍になることから,W.プラウトのように,すべての原子は同じ基本物質(たとえば水素の1/2)の集合体ではないかと考えた。
執筆者:吉田 晃
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
フランスの化学者.1816年ジュネーブに行って,自然科学を学んだ.1823年パリに出て,エコール・ポリテクニークで化学の“自習監督”(répétiteur)をする.1832年科学アカデミー会員に選ばれ,1841年からはパリの理学校の正教授となり,同時にエコール・ポリテクニーク,パリ医学校の化学教授も兼任した.1868年には科学アカデミー終身書記長となった.1826年それまでの気体密度測定法を改良し,常温で固体の物質も加熱により蒸気にして測定できるようにした.単体の場合に,アボガドロの法則を適用して原子量を計算しようとしたが,リン,硫黄,ヒ素,水銀に関しては期待した数値と合わず,原子論に対して慎重な態度をとるようになった.しかし,後になって弟子のJ.-S. Stasとともに,炭素原子をはじめいくつもの原子量のより正確な測定を行っている.有機化学においては,エタノールとエチルエーテルの研究から,炭化水素のラジカル(のちの官能基に相当)を考え,メチル基,エチル基に近いものを考えた.さらに,アルコールとハロゲンとの反応から,1834年置換反応の存在を示した.かれは,有機化合物の構造による分類にまでは至らなかったが,一方でW. Prout(プラウト)の仮説(元素の原子量が水素のそれの整数倍になり,水素はほかの元素をつくる始源物質である)にもとづいて,元素を基本原子量の整数倍の値から分類することを試みた.政治にも関心を示し,下院議員に当選した後,1849年農商務大臣を務め,のちに上院議員に任命された.
出典 森北出版「化学辞典(第2版)」化学辞典 第2版について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
父子同名。(父)1802~70フランスの小説家。『三銃士』『モンテ・クリスト伯』など興趣あふれる物語を数多く書いた。(子)1824~95前者の子。小説『椿姫』によって世に出,風俗劇『ドミ・モンド』,社会問題劇『クロードの妻』などを書き,近代劇に写実主義を確立した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…三つの環から成る芳香族炭化水素の一つ。1833年にJ.B.A.デュマがコールタール中から単離したもので,ギリシア語の石炭を意味するanthrasに起源・出所を示す接尾辞eneをつけて命名された。純品は,エチルアルコールから再結晶したものは板状結晶,ベンゼンから再結晶したものは針状結晶で,いずれも無色の結晶であるが紫色の蛍光を有する。…
…ベルセリウスは,基は不可分の物質の構成単位で,電気力によって有機物分子をつくる,と考えた。しかしJ.B.A.デュマとローランAuguste Laurent(1807‐53)は,電気的な力に重点をおかず,種々の基が結合できる〈核〉を考えた。核の種類に応じて有機物は〈型〉に分類される。…
…たとえば有機態窒素化合物(タンパク質,アミノ酸,アミノ糖,核酸など)は,そのほとんどすべてを一つのグループとして取り扱うこともできる。すなわち,これらの有機態窒素化合物は,いずれも酸化銅などの酸化剤の存在下,N2を含まない気流中で強熱分解するとN2に変わり(デュマ窒素定量法),硫酸銅などを含む濃硫酸液中で加熱分解するとNH4+に変わる(ケルダール窒素定量法)。したがって加熱分解後は,有機態窒素化合物の定量はN2あるいはNH4+の定量に帰することになる。…
※「デュマ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新